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ポール・ハリスの歩んだ道(5)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

ニューイングランドのバレーに戻った気分に
 ポール・ハリスはシカゴという大都会で弁護士として成功しましたが、休日や日曜日にひどく寂しい思いをしていたことは、前号でご説明した通りです。
 ポール・ハリスはあるときビジネスマンの知人の、郊外にある住宅に招かれました。夕食のあとで近所の散歩に出たとき、彼はそこかしこの店でいかにも親しげに商人たちの名前をよび、話しかけているのを見ました。この光景はポール・ハリスが少年時代を過ごしたニューイングランドのバレーを思い起こさせたのです。そのとき、シカゴでも異なった職業の人を集めて、政治的宗教的な違いにこだわらず、意見の相違にも寛容なクラブができたらすばらしい、というアイディアが浮かんだのです。違う職種ならばメンバーは競争や嫉妬にとらわれず、お互いに喜んで助け合うことができるのではないか、と。
 ポール・ハリスはそう考えただけで何年もの間、このアイディアを暖めていました。一人の人間が何か大きなことをやろうとするのには、やはり時間が必要です。そして1905年2月に友人3人と語らい、「お互いに信頼のできる公正な取引をし、仕事上の付き合いが、そのまま親友関係にまで発展するような仲間を増やしたい」と言うと全員が賛成してくれたのです。いちばん親しかったシルベスター・シールが最初に会長になってくれ、ずっとメンバーでいてくれました。グスタフス・ローアとハイラム・ショーレイは最初は加わりましたが、すぐ続かなくなり、そのかわりに、ハリー・ラグルスとチャーリー・ニュートンその他が加わって熱心なメンバーになり、さまざまな企画にも参加してくれました。
マウントホープ墓地 銀行家も鉛管工も弁護士も洗濯屋もお互いの野心や成功の秘訣が同じ様なものだと分かりましたし、いかに共通の問題を抱えているかも分かってきました。お互いに奉仕しあう楽しさも分かってきたし、ポール・ハリス自身はここでニューイングランドのバレーに戻ったような気分になれたのです。
 3回目の会合で、クラブの名前をロータリーに決めました。会合の場所をそれぞれの事務所で持ち回り(ロータリー:回転)していたからです。会合はいろいろなホテルやレストランを回りましたし、メンバーは回る人(ロータリアン)と呼ぶことにしました。ポール・ハリスはできるだけ自分以外を会長にしたいと推挙していましたが、3年目に会長になり、そこで三つの提案をしました。第一はシカゴクラブの充実発展、第二は他の都市にもロータリーを広めること、第三はコミュニティーに奉仕することをロータリーの目的に含めることです。
初代会長のシルベスター・シール墓石
ロータリーを世界に拡大していくことの問題点

 ポール・ハリス第3代会長の夢は、世界にロータリーを拡げていくことでした。しかし、ポール・ハリス以外の会員は必ずしもこれには賛成ではなかったようです。そこで彼は自分の通った3つの大学、バーモント、プリンストン、アイオアの卒業生に働きかけ、さらに5年間の世界放浪で知り合った多くの知人友人を動員して、ロータリー・クラブを作って欲しいと呼びかけたのです。これは「頭痛をともなう作業だったが、喜びもあった」とポール・ハリスは書いています。ポール・ハリスはその間弁護士の仕事も休まずに続けていましたから、苦労はひとしおだったでしょう。
 シカゴに続いて結成されたのはサンフランシスコでした。地震と大火に見舞われ再建の努力がなされていたサンフランシスコには、1908年11月にロータリー・クラブが誕生しました。つづいてオークランド、4番目がシアトル、5番目がロサンゼルス、ニューヨーク、ボストンがそれに続きました。
 こうして組織が拡大していくことに伴う問題点は、創立の精神である「相互扶助と奉仕の精神」をいかに正確に伝えていけるか、という問題です。ポール・ハリスはこれらの新しいクラブを回り、いかにして「寛容の精神に則った仲間意識」を作り上げるかを語り、聴衆を笑わせ、楽しませることに成功したのです。
 アメリカ以外の国で、最初に目標にしたのはカナダでしたが、始めに企画した2箇所は失敗し、成功したのはウイニペグでした。これが外国のロータリー第1号です。つぎはイギリスで、ポール・ハリスの知人シェルドンがロンドンに出店を持っていることから、ロンドンのクラブがオープンしました。以下続々世界に広がっていくのですが、そうなると各クラブの代表を集めて年次大会を開くことが考えられ、第1回は1910年に16クラブの代表が参加してシカゴのコングレス・ホテルで開催されました。今年シカゴで開かれたロータリーの創立100周年記念年次大会はそれから数えて第96回になります。

ポール・ハリスの家が「カムリーバンク」と呼ばれるわけ

 ニューイングランド育ちのポール・ハリスはシカゴでも郊外の山野を歩き回るのが好きでした。特に冬、雪に覆われた郊外はバーモントそっくりの風情を見せていたようです。ハイキングの好きな人々でつくるシカゴ・プレーリー・クラブのメンバーと郊外を歩いているとき、薮に引っかけてジャケットに裂け目をつくり、それを縫ってくれたのが縁でジーン・トムソンというスコットランド出身の女性と知り合いになり、1910年に結婚しました。
 1912年、二人は郊外のモーガンパークの丘の上に家を買い、これをカムリーバンクと名付けたのですが、これはジーン夫人が子供のころを過ごしたエジンバラの町の通りの名前なのです。
 私もシカゴの国際大会に出席した際に、このカムリーバンクを訪れてきました。ロータリーの創設者のひとりであるシルベスター・シールもすぐ隣に住んでいたそうです。ここから車で10分ぐらいのところにあるマウントホープ墓地にも行きました。ここにはポール・ハリスとシルベスター・シールの墓が並んでつくられています。
ポール・ハリス墓石 シカゴの中心地は近代建築の見本市といわれるように、さまざまな形の高層建築が立ち並び、ニューヨークや東京と変わらない超大都会ですが、やや開発からはずれたこの一帯はポール・ハリスたちが住んでいた頃と殆ど変わらない景観を残しているようです。
 ポール・ハリスは、わが家は野鳥たちの避難場だ、と書いていますが、彼自身も暇があれば庭に鳥の巣箱をつくってやったりしていたようです。春になると鳥達の歌が鳴り響く、と書いているポール・ハリスは、この自然の中の郊外住宅でニューイングランドを懐かしんでいたにちがいありません。
 ポール・ハリスとジーンには残念ながら子供がありませんでしたが、ポール・ハリスはわれわれの子供はロータリー・インターナショナルだ、と書いています。二人は自宅にロータリーの関係者をつぎつぎに招いて、友情を育んでいました。
 ポール・ハリスはロータリー・インターナショナルの理事会の要請に応じて、世界のロータリークラブを訪れ、ロータリーの基本精神である寛容と善意と奉仕を訴え続けました。にもかかわらず、世界が二つの大きな大戦を経験しなければならなかったのです。しかし、この間もロータリアンは決して「超我の奉仕」を忘れなかった、とポール・ハリスは書いています。フランスはポール・ハリスのその功績をたたえ、レジョン・ド・ノール勲章を贈りました。
 晩年のポール・ハリスはジーン夫人と自宅の暖炉の前で紅茶を飲むのが日課でした。火があかあかと楽しげに燃え、お茶が美味しければ、「一日を終えるのにこれ以上の楽しみがあろうか?」と書いています。
 ポール・ハリスの自叙伝は次のようなお祈りの言葉で締めくくられています。
カムリーバンク 「神よ、人や国が過ちを犯すという私の予見が消え、人や国の徳が栄えるという予見で世界が明るくなりますように―――」
 ポール・ハリスがその尊敬する祖父から学んだものは、まさにこの「徳(Virtues)」だったのではないでしょうか。 (終わり)

(「カムリー・バンク募金」へは、多くのクラブ様及びロータリアンの方々にご協力いただき、この欄をかりて厚く御礼申し上げます。)


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Copyright 2005 Rotary International District 2650.
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