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ロータリークラブ「奉仕の一世紀」(4)  (1949〜1970)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

日本の急速な復興とロータリー・クラブの繁栄
 「焦土からよみがえる不死鳥のような」日本の力強い復興ぶりは世界を驚かせました。原動力となったのは、何と言っても工業力の充実と輸出の拡大でしょう。アメリカの援助や、農地解放、財閥解体といった占領政策も経済の民主化と産業の活性化を生み出し、さらに1950年の朝鮮戦争では、特需というプラス効果がもたらされました。アメリカに次ぐGNPを誇るまでに成長したのは、「働きすぎ」といわれるほど必死に働き、世界中に良質で安い商品を輸出したからといえます。
 それにともなって、日本におけるロータリー・クラブの数も急速に増え、1962年にはロータリアンの数もクラブの数もアメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位になりました。
 また、1961年5月には、念願のロータリー国際大会を東京で開催することができました。すでに完成していた晴海の国際見本市センターを会場に、世界74カ国から23,336名が出席し、開会式には天皇皇后両陛下もおでましになられ、文字どおり大成功の国際大会となりました。
1961年東京での国際大会(A CENTURY OF SERVICE/デイビット・C・フォアード著より) この日本ロータリーの歴史上忘れてはならないイベントが開催できたのは、ひとえに日本の発言力が国際ロータリーにおいて増してきた結果といえます。まず日本が被占領状態を脱却した1952年に、東京ロータリーの手島知健氏が国際ロータリーの理事に選ばれました。その後、小林雅一、東ヶ崎潔、松本兼二郎の諸氏が理事になり、国際大会の誘致が可能になったのです。
 1968年には東ヶ崎潔氏が初の国際ロータリー会長に選ばれるに至り、会員数の増加とともに以降つぎつぎに日本人理事が誕生しています。当2650地区からは千宗室氏(1988年)、小谷隆一氏(1998年)の両氏が就任されています。いまや日本ロータリーは、国際ロータリーにとって欠かせない存在になったと言えるでしょう。

ジェット機の就航と国際交流プログラムの充実
 ロータリーの国際青少年交換プログラムは、1927年にデンマークのコペンハーゲン・ロータリー・クラブがアメリカの青少年を受け入れる手配をしたことから始まっています。1928年には300人ものアメリカの青少年がスカンジナビアで5週間ホームステイをしています。どちらも船を使っての長い時間をかけての渡航でした。戦前の海外旅行は船が常識でした。
 戦後はこれが飛行機に変わりました。国際ロータリーのような世界的な組織では、こうした交通手段が便利になり高速化することは大きな意味を持ちます。1960年代に入ると、それまでプロペラ機だった空の旅が一斉にジェット機に変わり、飛行時間が半分に短縮されたばかりでなく、高高度を飛行することで揺れも減り、快適になりました。同時に国際交流プログラムもより充実し、活発になりました。
 日本のロータリー・クラブが行なった最初の国際青少年交換プログラムは、1961年1月でした。九州の第365地区が、オーストラリアの第280地区に交換学生を派遣。京都ロータリー・クラブでは、1971年8月に男子高校生をアメリカのミシガン州の第629地区、グランド・ラビット・ロータリー・クラブに派遣。このクラブから男子高校生が派遣され、京都西高校で受入れています。
 このプログラムとは別に、ロータリー財団のプログラムとして、国際奨学金制度があります。目的は主として大学院に留学させようというもので、日本からは、1950年に大学院生がアメリカに留学しています。彼らはロータリー・フェローと呼ばれ、国連の難民高等弁務官として活躍され、1996年「ロータリー国際理解と平和賞」を受賞された緒方貞子女史も、そのロータリー・フェローの一人だと言うことは、みなさんご存じのことと思います。
 1960年代のはじめに、5名のロータリアン(アジア、欧州、ラテンアメリカ、ニュージーランド、北米から1名づつ)からなる委員会が、ロータリー・クラブをモデルにし、高校生を対象とした奉仕クラブを発案しました。インターナショナルとアクションを合わせてインターアクトと名付けた奉仕クラブの第1号が、アメリカのフロリダ州にあるメルボーン高校で結成され、またたく間に世界に広がりました。日本では1963年に仙台の育英高校で発足し、京都では同年、市立西京商業高校で設立されています。
 ただ、日本では活動していた生徒が卒業すると後が続かないという悩みがあり、インター・アクト・クラブはあまり拡大していないようです。しかし、これに続いて提唱された18歳から30歳までの青年男女を対象にしたローターアクト・クラブの方は、ロータリーの若年版として指導もしやすく、またロータリーが行なう海外からの交換留学生との交流などもはかれ、今日も盛んに活動しています。

ロータリー50周年と4つのテスト
 1954年にロータリーは発足50周年を迎えました。それを記念して日本のロータリーは第60地区と第61地区(つまり全国)の連合大会を10月16−17日の両日に京都の京都市勧業会館で開催しました。当日、全国147のクラブから参集した出席者は3000人を越えたといわれています。シカゴからは元RI会長のアンガス・ミッチェル氏がハーバード・テーラー会長の代理として出席され、そのメッセージを伝えるとともに、自らも情熱のあふれるスピーチで出席者に感銘を与えました。
 1929年の大恐慌以来、アメリカの企業経営者はいずれも倒産ないしは倒産の危機に瀕した企業の再建に、必死に取り組んできたのですが、ハーバード・テーラー会長もその一人でした。彼は1932年にクラブ・アルミニウム社の社長を引き受け、再建に取り組んだのです。当時の同社は運転資金も乏しく、従業員の勤労意欲は地に落ちており、ライバル会社との激烈な競争に喘いでいました。
 そこで、すでにシカゴ・ロータリークラブのメンバーだったテーラー社長は、ロータリーの掲げる「4つの奉仕」から職業奉仕の理念をこの再建のための指針にしようと考えたのです。会社の各部の長を集め、「4つのテスト」という行動倫理基準を示しました。
 1) 真実かどうか
 2) みんなに公平か
 3) 好意と友情を深めるか
 4) みんなのためになるかどうか
 言行は、まずこのテストに照らしてから実行しよう、とする4項目です。
 クラブ・アルミニウム社はこうした職業奉仕・行動倫理を基礎とした経営が功を奏して見事に立ち直り、15年後には100万ドルの配当が可能なまでになったのです。
 また、この50周年大会では、テーラー会長からロータリーの「6つの目標」も示されました。
 1) 過去を省み将来に備え
 2) ロータリーの幸福をできるだけ多くの人に及ぼすよう会員の増加をはかり
 3) ロータリアンとしての自己評価をするために「4つのテスト」の実行に努め
 4) 自ら青少年の模範となって彼等を指導し
 5) あらゆる機会に国際親善の増進に力を致し
 6) 自己の社会的地位に鑑み、善良なる国民と
 なることに努力する
 この6項目は、いずれも100周年を迎えた今日にも通用する目標だと思います。
 ロータリーが掲げる「4つの奉仕」のなかでも、職業奉仕は「わかりにくい」と感じるクラブメンバーが少なくないようです。しかし、そもそもロータリーを発足させたころのシカゴは商道徳の退廃した町で、弁護士としてその被害を被った人々の救済にあたっていたポール・ハリスは、少なくともロータリーのメンバーは他人を騙したり傷つけたりすることのない立派な職業人であって欲しいと考えていたのです。ですから、職業倫理も、もともとロータリーの基本理念のひとつであったと言えましょう。
 企業の非倫理的かつ不法不当な行為に基づく事件が、アメリカでも日本でも大きく報道される昨
今です。その意味でも「4つのテスト」の意義は、昨今ますます重要性を帯びてきました。

1970年の大阪万博とロータリーの協力

 1970年に大阪北部の千里丘陵で開催された万国博覧会は、日本で初めてのイベントであるばかりか、スエズ以東で開かれる初めての万博でした。1964年の東京オリンピックと並んで、日本の復興ぶりを世界に示す国家的な催しであったと言えます。
 万国博覧会の開催をふまえ、1966年11月に万国博ロータリー組織委員会が組織され、大阪万博を成功させるために積極的に協力することが決議されました
 万博会場で毎週、例会を開会することが全日本のロータリーで決定された。具体的な企画は大阪のロータリーを中心に進められ、世界中からやってくるロータリアンの憩いの場と情報センターとして、会場内に13,500本のバラを植えた「平和のバラ園」を造り、例会の会場に提供することも決まりました。そのほか、京都市内の16クラブと宇治のクラブが万博会場への道路標識を寄付したり、さまざまな協力が行われ、大阪万博は、大成功の内に閉幕したのです。会場跡地の万博公園内には、ロータリーが提供した「ロータリーの森」(1972年)が、いまでは立派な森に成長しています。

1950年から1970年のRI2650地区クラブ拡大
 1925年にわが地区で、京都RCが設立されたのち1950年から1970年は、ロータリーの拡大が急速にすすめられ以下のクラブが誕生しています。1950年には福井RC、1951年には大津RC・長浜RC、1952年には奈良RC・彦根RC、1953年には福知山RC・舞鶴RC、1954年には京都南RC・武生RC・綾部RC・宮津RC、1956年には京都東RC、1957年には橿原RC・敦賀RC・京都北RC、1958年には京都西RC・五條RC・近江八幡RC、1959年には峰山RC・鯖江RC、1960年には宇治RC、1961年には福井北RC・大和高田RC・水口RC・八日市(東近江)RC・勝山RC、1962年には舞鶴東RC・小浜(若狭)RC、1963年には大和郡山RC・大野RC、1968年には京都山科RC、1970年には奈良西RC・京都乙訓RC・福井南RC・亀岡RC・草津RC・京都城陽RCの37のクラブが誕生しております。(以下次号)

1968年、日本初RI会長に就任された東ヶ崎潔記念バナー
日本で最初にできた門司RC制作の「四つのテスト」のポスター
1968年、日本初RI会長に就任された東ヶ崎潔記念バナー (東京RC80年記念誌より) 日本で最初にできた門司RC制作の「四つのテスト」のポスター (京都RC創立75周年記念誌より)


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Copyright 2005 Rotary International District 2650.
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