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ポール・ハリスの歩んだ道(4)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

祖父の死からアイオア州立大学法学部まで
 ポール・ハリスは1887年にプリンストン大学に入りますが、翌88年3月に叔父のジョージ・フォックス博士から電報をもらいます。「生前のお祖父さんに会いたければ直ちに帰宅されたし」ポール・ハリスは急いで汽車を乗り継いで帰りますが、間に合いませんでした。
 その年の冬はひどく厳しく、寒さを押して戸外の作業をしたことが祖父の寿命を縮めたようです。義理の息子にあたる医者のジョージ叔父が駆けつけたときは、肺炎でどうしようもない状態になっていたようです。故人の遺志を汲んで、自宅で簡素な葬儀のあと遺体はウォーリングフォードの町はずれにあるグリーンヒル墓地に埋葬されました。
 私も先日この墓地を訪れ、ポール・ハリスが愛した祖父母の墓にお参りをしてきました。緑が多く、はるかに山並みが眺められ、それは美しい墓地でした。
 ポール・ハリスはプリンストンに戻り、その学年を5月に終えますが、夏故郷に戻り、その秋からウエスト・ラトランドにあるシェルドン大理石会社で働き始めます。

アイオワ州立大学法学部のポール・ハリス

 プリンストン大学を1年でやめ、大理石会社に勤めたポールに弁護士になることを勧めたのはお祖母さんでした。彼女はお祖父さんがポールの将来に期待をかけていたことを話してきかせ、ポールの父親に失望した分、何とか孫を立派な社会人にしたいと考えていたことを教えます。
 ポールはその説得を聞き入れ、翌1889年にはアイオワに向けて旅立ちます。当時のアメリカは西へ西へと開拓の手が伸びていた時代で、ニューイングランドの人々にとってはシカゴもアイオワ州も「西部(ウエスト)」でした。彼はシカゴで1週間を過ごすのですが、活気にあふれた町で、悪の匂いもするが魅力に満ちてもいた、と書いています。
 日本でもアメリカの制度をまねて「法科大学院」を各大学に設置しましたが、アメリカの法学部はいわば法律家の養成を目的とした「ロースクール」で、ここを卒業すれば大部分がいわゆる司法試験をパスして、弁護士や裁判官になるのです。ポールはまずアイオワ州の州都であるデモワンに行き、ここのセントジョン・スティーブンソン・ワイゼナンド法律事務所の書生として法律事務を勉強します。
 ここで約1年法律事務を実習したのち、1890年9月にアイオワシティーにあるアイオワ州立大学法学部に入学するのです。
 このロースクールの雰囲気はポールがこれまで経験してきたバーモント大学やプリンストン大学のそれとは大いに異なっていた、とポールは書いています。まず、学生の平均年齢が大分上で、殆どはアイオワの農場の出身者でしたが、大学の学費を出すために教員をやったりして稼ぎながら勉強していたということです。その多くはもう「遊びたい年齢」を通りこしていて、ひたすら真面目に勉強する人達でした。寮にもどっても、法律のクイズをしあったり、法律論のディスカッションをしたりで、法律のことが頭から離れないという人々でした。
 これまでの大学では、いろいろな本を読んでさまざまな世界を知り、多くの友人を作ってきたポールも、ここでは一心に法律を身につけ、弁護士としてそれが役立つように勉強したようです。その結果、翌年(1891年)6月には目出度く卒業することができました。

5年間の「世界好奇心旅行」で何を得たのか?

 ポールが他の学生と違っていたのは、他の連中はここを出るとすぐに弁護士になり、実務を開始したのですが、ポールはそうなる前に世界をもっと体験したい、という好奇心に駆りたてられたのです。
 その動機となったのは、卒業前の講義を担当した教授は10年前にその大学を卒業した先輩だったのですが、自分は大きな町の弁護士になる前に、卒業後見知らぬ小さな町に行って5年間そこの弁護士をやり、さまざまな人生の経験を積んでから大きな町に出たのだ、という体験を語ったのです。これがポールの心に強い印象を残したのです。ポールはこれまで幾つかの大学で、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語の本を読んで魅せられました。中にはスカンジナビアの作家の本も読みました。シカゴのような大都会の弁護士になる前に、5年ぐらいこうした世界各国を見て歩き、いろいろな国に知り合いを作りたい、と思ったのです。これは「無駄な旅」かもしれないが、長い人生を考えればきっと役に立つと考えたのですが、事実将来ポール・ハリスがロータリーを世界に拡げるにあたって、この世界の「人脈」が少なからず役にたち、今日のようなロータリーに成長したわけで、その基盤はこうしてできあがったのです。

シカゴでロータリーを立ち上げるまで

 それにしても、ポール・ハリスが弁護士を開業したころのシカゴは、経済的に難しい時期にありました。ポール・ハリスはさまざまな不況を経験しているだけに、十分予想はしていたのですが、予想を遥かに超える困難な状況にあったようです。弁護士としての看板は掲げたものの、仕事がくることはありませんでした。法廷に顔を出して案件を見学し、さまざまな資料を読み、若い弁護士仲間にも声を掛けましたが、一向に効果はありませんでした。どうやって成功したか、ポール・ハリスは詳しくは書いていませんが、やがて努力が実って成功し、シカゴ弁護士会の正会員になり、プレス・クラブやボヘミアン・クラブのメンバーになり、商工会議所でも盛んに活躍する一流弁護士に成長したことは確かです。
ポール・ハリスが父親に水泳を教わったフォックス・ポンド湖(※現在はエルフィン湖と呼ばれている) とはいうものの、ポール・ハリスは寂しかったようです。特に休日や日曜日はそうだった、と書いています。田舎からやってくる青年達を見つけて親しくなろうとし、同窓の大学の友人達を見つけようともしたようです。でもウォーリングフォードで作ったような友人達をシカゴでつくることは難しかったのです。
 ポール・ハリスは故郷を訪れることにしました。ラトランドの駅には医者のジョージ叔父さんが四輪馬車で迎えにきてくれました。叔父さんの家は3階建ての立派な家でしたが、子供達はいなくなっていて、ミリー叔母さんは歓迎してくれたのですが、昔のように賑やかな笑い声は聴かれなくなっていました。
 しかし、その馬車で訪れたウォーリングフォードの自然はまさに昔のままでした。祖父母がいないのは残念でしたが、果樹園も牛たちも、懐かしいフォックス・ポンドも昔のままで、子供達が歓声をあげていました。その故郷の風景を眺めていると、休暇が終わればまたシカゴに戻って、あのキリキリしごかれる生活が待っているのか、とため息をつかずにはいられなかったようです。この故郷訪問のおかげでポール・ハリスはすこしばかり元気になり、食欲も旺盛になりました。特にウィークデイは仕事も忙しく、寂しさを忘れることができましたが、休日や日曜日はやはり寂しかったようです。ウォーリングフォードの自然日曜の朝は教会に行きましたが、午後になると時間を持て余しました。「私は猛烈に淋しかった(desperately lonely)」とポール・ハリスは書き残しています。ニューイングランドのバレーと親しい古い友達!それはシカゴの公園を散策することでは満たされなかったのです。
 ポール・ハリスはミシガン湖の遊覧船にも乗ってみましたが、両親に連れられた子供達を見ていよいよ孤独になりました。さまざまなレストランにも行きましたし、知人を増やすようにもしましたが、真の友人はなかなかできなかったのです。
 これがロータリー・クラブを立ち上げる直前のポール・ハリスの状態でした。(以下次号)


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