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ポール・ハリスの歩んだ道(3)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

コングリゲーショナル・チャーチの影響
 アメリカの田舎を走っていますと平原の彼方にまず教会の尖塔が見え、やがて村の集落が視界に現われます。つまりコミュニティーは教会を中心に作られると言っても過言ではないでしょう。バーモント州のウォーリングフォードにロータリーの創始者ポール・ハリスの育った家を訪ねたとき、すぐ近くに真っ白な教会があり、案内してくれたチャーリーが「これがハリス一家の通っていたコングリゲーショナル・チャーチです」と教えてくれました。
 この宗派は16世紀後半英国でイギリス国教会から独立したもので、個々の教会の独立と自治を主張し、それぞれの教会の会衆(コングリゲーション)の信仰が教会の権威を生みだす、という一派で、日本では会衆派(組合)教会と呼ばれています。アメリカが英国王の権威を否定し独立を宣言したときに、この教会の考え方がその原動力になったと言われます。ニューイングランドでは特に盛んになりました。ハーバード大学やエール大学もこの派の教会が中心になって発足した大学です。日本では、アメリカで学んだ新島襄が1875年に同志社大学の前身である同志社英学校を作りましたが、そのときに伝えたのもまさにこの宗派のキリスト教でした。
 毎日曜日、ハリスの祖父母は正装しシリルとポール・ハリスを連れてこの教会に行きました。オールダス・ウォーカー牧師の説教を聴き、賛美歌を歌ったのです。長い白髭を持つ牧師はポール・ハリスの目には聖人のように見えました。彼はこの教会の「会衆」の尊敬を一身に集めていたと思われます。ハリスは自叙伝の中に「この教会では、すべてが平和で、礼儀正しさと、安寧に満ちていた」と書いています。もっとも、お年を召したお祖父さんはお説教の途中でよく居眠りをされたようで、ポール・ハリス少年はその度に爪先でお祖父さんの足を踏んで起こさねばならなかった、ということですが――。
 牧師は聖書を引用しながら、隣人を愛し、コミュニティーに奉仕することの大切さを繰り返し説きました。ポール・ハリスの心のなかに奉仕の大切さが植え付けられたのは、毎日曜の教会の説教と日曜学校の教育の成果だったのではないでしょうか。

祖父の演説はポール・ハリスにはリンカーンのゲティスバーグ演説に匹敵

 祖父のハワード・ハリスはおそろしく無口な人だったらしいのです。しかし、彼はまさに「寛容」を生きた人だ、とポール・ハリスは書いています。例え嫌いな隣人に対しても、それを顔に表すことはありませんでした。時折り教会のお説教で居眠りをすることがあっても、彼の心にはキリスト教の教えがたっぷり満ちており、物事の判断はその教えにしたがって、極めて明確に下すことができたとポール・ハリスは言います。
 当時のアメリカは南北戦争が終わったところで、北側の人である祖父は当然共和党だったし、共和党の大統領であるリンカーンを尊敬していました。もっとも、リンカーンの最も有名なスピーチであるゲティスバーグの演説は、当初は新聞記者達から、評判は良くなかったのです。しかし、時とともにその名声は高まり「英語でなされたもっとも偉大なスピーチ」という尊称を与えられるにいたったのです。
 ポール・ハリスは自伝の中で「私にとって祖父のスピーチは実にリンカーンのゲティスバーグ演説だった」と書いています。その一例として、となり町のラトランドでローレンスという弁護士が判事に立候補したとき、なぜ彼を支持するかを説明した自宅の炉端での祖父の「演説」を挙げています。因にアメリカでは、地方判事は選挙で選ばれるのです。
 「わしはローレンスに関するラトランド・ヘラルド紙の記事は克明に読んでいる。彼はいつでも『何が正義か』を考えているように見えるね。決して大衆がどう思うかを考えた、大向こうむきの議論などしない。実に慎重に簡潔に発言するが、その議論は常に判事にも陪審員にも尊重されてきたんだ」
 ゲティスバーグの演説同様、これを聴いたときのポール・ハリスはこれをたいしたスピーチとは思わなかったし、第一当時のポール・ハリスは弁護士になろうとなど考えておらず、船乗りか汽車の機関士になりたかったのです。
 でも、ポール・ハリスが1896年にシカゴで弁護士を開業したとき、祖父の「演説」をまず思い出したのだそうです。そして、自分は祖父にもローレンス判事にも恥ずかしくない正義のための弁護士になろうと考えたのだそうです。
 ポール・ハリスはその後シカゴ弁護士会の職業倫理委員会の委員長になったのですが、常に「正義」を思い出しながら多くの案件に判断を下したと書いています。

ウォーリングフォード高校の討論クラブで

 ポール・ハリスが進学したウォーリングフォード・ハイスクールのヘンリー・バロウ校長は、校内にディベート・クラブを発足させました。
 ポール・ハリスたちはこのクラブのメンバーとして二つのグループに分かれ、それぞれどのような議論を展開するか、作戦会議を開いて準備をします。ディベート合戦は夜に行われ、それぞれのグループから一人ずつ代表がでて議論をします。テーマは神学論争で代表に選ばれたアルバートという生徒が牧師になって議論を展開し、「神の恵みがありますように」と結んで、帰ろうとすると校長が「まだだめだ」と議論を続けさせた、ということで、この校長はなかなか厳しい人物だったようです。
 アメリカでは政治家を目指す人はすべて、こうしたディベートに強くなければなれません。大統領選挙のときは、必ずテレビで候補者同士が論戦を行って、有権者はそれを見てどちらに投票するかを決めるのですが、議論の勝ち負けというよりは議論の展開の仕方を見て人柄を判断しているようです。ポール・ハリスが高校生のころにはむろんテレビもラジオもありませんでしたが、一流の社会人をつくる教育にはこうした討論の展開は重要な要素と考えられていたようです。
バーモント大学 ポール・ハリスの祖父はポール・ハリスの中に、将来一流の人物になる才能を見ていたようです。そのためにはしっかりした大学教育を受けさせたいと考えました。しかし、ポール・ハリスが高校のあと入ったブラックリバー・アカデミー、バーモント・ミリタリー・アカデミー、バーモント大学での記録は決して芳ばしいものではありませんでした。ポール・ハリスは文学、哲学、歴史、人文科学、社会科学には学ぶ価値を認めた、と書いています。しかし学業以外の部分ではかなり奔放な学生生活を送ったようです。

プリンストン大学時代のポール・ハリス

 ポール・ハリスは、いたずらが過ぎてバーモント大学を放校処分に遭ったあと、しばらくぶらぶらしていたようですが、やはりしっかり勉強しなければいけない、と決心して1887年9月に名門校のプリンストン大学に入学します。
 プリンストン大学はニュージャージー州にあり、ニューヨークから車ですと1時間半ほど南下した田園の中にある大学で、イギリスのケンブリッジやオックスフォードのような雰囲気を残した美しいキャンパスを持ち、ハーバードやエール大学とともに「アイビーリーグ」のひとつに数えられる大学です。有名なアインシュタイン博士もこの大学で教鞭をとられており、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹博士も当時この大学で研究されていました。
ブリンストン大学 ポール・ハリスがプリンストンに入ろうと考えた理由には、尊敬するジェームス・マコッシュ博士が学長をされていることを挙げています。ポールは「私はこの高名な教育者のもとで論理学と心理学を学ぶ光栄に浴したかった」と書いているのです。
 マコッシュ博士はプリンストン大学に来られる前、イギリスのエジンバラ大学、グラスゴウ大学、ベルファースト大学で教えておられました。「ジミー」と呼ばれて誰からも愛されたこの温厚な学者は、ポールの目には「祖父とそっくりに」見えたと書いています。
 祖父のハワードよりも本を読まれることが多いせいかやや前屈みでしたが、鼻の形がわし鼻であるところなどは「祖父そっくりだった」ということです。
 ポールはプリンストンに入学した最初の日に、ハス教授に頼んで学長の家を訪問しました。
地図 マコッシュ学長は椅子に腰をおろしたまま手を差し伸べてポールと握手をしました。そして、「君は学生生活をエンジョイするために本学にはいったのかね?」と尋ねたそうです。もしかしたら、学長はポールのバーモント大学での一件を知っていたのかもしれませんが、ポールはこの質問に「きまりの悪い思いをした」と書いています。ポールの答えは「いいえ、マコッシュ学長、ここには勉強するために来ました」とはっきり答えました。それに対して学長は「あー、そうだよね、当然」と答えられたそうです。
 事実、ポールはきちんと勉強したようですが、残念ながら翌年の初めにウォーリングフォードの叔父さんから電報を貰います。「生きているお祖父さんに会いたくば、直ちに帰られたし」(以下次号)


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