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spacer.gif ガバナー月信8月号
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ポール・ハリスの歩んだ道(1)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

シカゴで生まれたロータリークラブ。その精神はニューイングランドのバレーで育まれた。
 2005年6月中旬シカゴで行われたロータリーの100周年記念国際大会に参加した後、飛行機でバーモント州バーリントンに飛び、ここから車で南に約2時間ドライブして、ロータリーの創始者ポール・ハリスが3歳から17歳まで大学に入る少・青年期を過ごしたウォーリングフォードという町を訪問しました。
 ポール・ハリスは1945年に自叙伝「My Road to Rotary」を執筆し、この本は彼が亡くなった翌年の1948年に出版されました。その後1981年にRIが限定復刻版を出したものと京都西南RCが1976年出版(米山梅吉氏が昭和3年に国際ロータリーの承認を得て翻訳出版されたものをご子息の米山桂三氏のお許しをえて再版)した「ロータリーの創設者 ポールハリス」を読んでみますと、彼のウォーリングフォードで過ごした少年時代の思い出が実に鮮やかに描かれており、この「ニューイングランドのバレーにおける生活体験が、ロータリーをつくりあげた土壌になった」ことが明記されていました。
 そこで、ロータリー・クラブのコンセプトの原点を理解するために、機会があればこの地を訪問したいと考えていました。
 メイン州、ニューハンプシャー州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、バーモント州、コネチカット州の6州はニューイングランドと呼ばれています。1620年にメイフラワー号に乗って最初の清教徒たちが移住して以来、この地方にはイギリス人、スコットランド人、アイルランド人など大英帝国の移民が多く移り住み、故国に似せた国づくりを行ったので、この一帯は「新英国」ともいえる土地柄なのです。
 私が今回バーリントンを出発してからウォーリングフォードに着くまでの2時間のドライブの間、途中食事のために立ち寄った大学町のミドルベリーを含めて、いわゆる白人以外の人種を見ることはほとんどありませんでした。これはニューヨークやシカゴでは考えられないことです。

3歳のとき父に連れられて祖父母の家にいく

 ミシガン湖の西側を約60マイル(96キロ)北上すると、ウイスコンシン州ラシーンという町があります。工業都市ですが、大学町でもあります。ここでポール・ハリスの父親ジョージ・ハリスはドラッグ・ストアをやっていたのです。妻はこの町の2代目の町長ヘンリー・ブライアンの娘コルネリアで、いささか派手好きの女性だったと思われます。ポール・ハリスは1868年4月19日にこの二人の第2子として生まれました。
 ジョージの父のハワード・ハリス(ポール・ハリスの祖父)はニューイングランドの倹約を旨とする人物で、その息子がどうして浪費家になったのか分かりませんが、ジョージ夫妻は浪費のために破産してしまったようです。にっちもさっちも行かなくなったジョージは5歳になる長男のセシルと3歳のポール・ハリスをバーモント州の祖父母に預けることにして、二人を連れてミルウォーキーから船でニューヨーク州のバッファロに向かい、ここから汽車に乗ってラトランド経由でウォーリングフォードに行ったのは、1871年7月のことでした。
 日本で言えば明治4年、日本で最初の鉄道が開通する1年前のことですが、もうアメリカでは鉄道が着々と路線を延ばしていました。兄弟の下にもうひとりニーナ・メイという赤ん坊の妹がいたので、母親のコルネリアはこの子の面倒を見なくてはならなくて同行できなかったと言われています。
 祖父のもとにはその日、夜11時着の汽車で着くことが知らされていたので、ウォーリングフォードの駅にはハワードがランプを下げて迎えに出てくれていました。ポール・ハリスは3歳だったこの夜のことを生涯忘れなかったようで、緊張で握りしめた手を暖かい祖父の手がやさしく握ってくれた、と書きのこしています。何しろ田舎のことですからもう駅員は帰ってしまい、駅にはお祖父さんしかいなかったそうです。
 今回私も、この駅に行ってみました。祖父母の家からは歩いてせいぜい5〜6分のところにあるのですが、汽車は一日1回だけニューヨークからくるとのことでしたが、もはやウォーリングフォードには停車しなくなったので駅は廃駅となり、いまは、消防署として使われています。現在この地を訪れるには次の駅で下車しなければなりません。
 3歳だったポール・ハリスは祖父に手を引かれ、坂を登って祖父の家に向かったということですが、子供の足には遠く感じられたのではないでしょうか。この祖父母の家はいまも残っていて、現在はロータリーの会員でもあるジェームス・マルキーさんという骨董の鑑定家が住んでいます。四角い煙突のデザインはよく見るとHHと見え、これはハワード・ハリスの頭文字を表すのだという話を聞きました。
  下の写真をクリックして頂くと大きなサイズがご覧頂けます。
←米山梅吉氏から贈られたポール・ハリスの胸像

ウホーリングフォードのロータリークラブハウス兼会議場(ポールハリス記念館)
左:宿の主人 ロータリアンのチャーリー氏
中:ガバナー大久保
右:ジェームス・マルキー氏(ロータリアン)

行方不明にされていたポール・ハリスの日本製胸像

 こうしてウォーリングフォードにやってきたポール・ハリスがどのようにしてこの田舎町の生活に溶け込み、ニューイングランド・バレーの自然を愛し、そこに住む敬虔なキリスト教徒たちの折り目正しい物の考え方を吸収し、友情や奉仕、寛容といったロータリーの哲学を育んでいったかは、これから回を追ってご説明していきたいと考えますが、今回は6月の訪問についてご報告します。
 ウォーリングフォードは人口も1000人強の小さな町ですので、ホテルはありません。いわゆるベッド&ブレックファスト(朝食つき民宿)でThe I.B.Munson Houseというのがあり、もとニューヨークの警官で、現在は当地のロータリー会員であるチャーリーが奥さんのリサさんと二人で経営している、その宿に泊まりました。翌朝、チャーリーにはポール・ハリスにゆかりの場所をすべて案内してもらいました。ビクトリア調の古い邸宅を宿にしたものですが、ベッドもお風呂も手を入れ直し、インテリアが専門という奥さんが装飾した寝室は、まるで美術館のような豪華さでした。
 宿から歩いて3分でポール・ハリスの祖父母の家があります。その3軒先にポール・ハリスが通ったという小さな学校があり、ここはいまウォーリングフォードのロータリーのクラブハウス兼会議場(ポール・ハリス記念館)になっています。当地のロータリークラブには特にメモリアル(ポール・ハリスを記念する)という素敵な称号がついているのですが、会員数は残念なことにいま18名しかなく、チャーリーも行く店々で懸命に入会を勧誘していました。この記念館の中にはポール・ハリスのブロンズの胸像が置かれていましたが、この像はポール・ハリスが1935年に東京を訪れた際、帝国ホテルで米山梅吉氏からポール・ハリスに贈られたもので、1943年にポール・ハリスがここを訪れたときにこの記念館に寄贈したのです。ところが、胸像がここに置かれていることをシカゴの本部では誰も知らなかったので、像は「行方不明」になったといううわさが日本にも伝わりました。胸像の制作者は盛岡勇夫という人ですが、行方不明と聞いた息子さんの盛岡公彦さんが「同じものがもう1体うちにあるから」というのでエバンストンのRI本部に再寄贈しました。
 その後、ふとしたことから胸像がウォーリングフォードにあることが分かって、盛岡公彦氏は大変喜ばれ、1996年に父の写真を持参してこの記念館を訪問されたということで、私が記帳したクラブの訪問者ノートにはすぐ2〜3ページ前に盛岡公彦さんの署名がありました。それから9年も経っているのに、殆どページが進んでいないのは、いまでもこの町が交通の発達から取り残された、いかにいきにくい場所であるかということが分かります。
 この建物ではじめてABCを学んだポール・ハリスは、親愛の情を込めてこの記念館を「小さな赤煉瓦の小学校」と書いています。ウォーリングフォード・メモリアル・ロータリーはここでランチではなくて毎週朝食会をやっているそうで、引退した2人を入れても20人の会なので、会議場としてはちょうどいいサイズだ、残念ながらね、とチャーリーが笑っていました。(次号につづく・5回連載予定)
下の写真をクリックして頂くと大きなサイズがご覧頂けます。
I. B. Munson House
三歳の時、ポール・ハリスが下車したウォーリンクーフォード駅(現在は消防署) ポール・ハリスの祖父の家(四角い煙突と屋根のデザインがハワード・ハリスの頭文字HH とみえる)


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Copyright 2005 Rotary International District 2650.
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