title.gif
obj_head_bar.gif
spacer.gif
spacer.gif ガバナー月信5月号
line_02.gif

ロータリークラブ「奉仕の一世紀」(5)  (1970〜1990)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

国際奉仕活動の拡充・発展と3Hプログラム
 1970〜1971年度に、世界のロータリー・クラブは148カ国14,364クラブに増え、ロータリアンの数は68万2183名を数えました。1971年5月にオーストラリアのシドニーで開かれた国際大会には、16,646名が参加しています。
 世界の歴史を見ると、当時はまだソ連とアメリカの冷たい戦争が続けられており、アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまりつつありました。
 その中で、世界の航空業界は1970年にボーイング747というジャンボ機を就航させ、そのおかげで国際航空運賃が下がり、日本ではお年寄りはもとより、若い学生やOLも安く気軽にアメリカやヨーロッパに出かける海外旅行の大衆化が実現しました。同時に海外諸国に関する知識も一般化し、ロータリーが提唱する国際奉仕も、ごく身近な活動としてすんなりと理解されるようになってきたのです。
 国際ロータリーの協議会が「世界社会奉仕(WCS)」を理事会に勧告したのは、これに先立つ10年前の1961年でした。1962年1月、RI理事会は正式にこれを採択し、発展途上国に対して、教育、公衆衛生、農業、工業の専門知識と経験を持つロータリアンがチームを組んで奉仕活動を行うプログラムがスタートしました。もちろん、災害に際してもWCSの救援活動が功を奏します。1971年のバングラデシュの大洪水、1973年のニカラグアの大地震、1975年にオーストラリアのダーウインで起こったサイクロンの被害、1999年に中米一帯を襲ったハリケーン・ミッチなどロータリーが手がけた災害救助活動の事例には枚挙にいとまがありません。
 1978年5月には再び東京でロータリー国際大会が開かれました。代々木の国立屋内競技場を会場に参加した国は実に95カ国、3万9,834人を数え、史上最大の大会となりました。この大会では「3Hプログラム」が発表されました。3Hは、Health,Hunger, Humanityつまり健康、飢餓追放、人間性尊重の頭文字を意味します。3Hプログラムとは、国際理解、親善、ならびに平和の増進を目的として、すべての人々の健康を増進させ飢餓の苦しみを緩和させ、人間らしい発展と社会的な発展を促進しようとする活動で、その後のポリオ・プラスにつながる国際奉仕プログラムでした。
 ロータリーは1980年に創立75周年を迎えましたが、たまたま1979年が国際児童年に指定されていたこともあって、75周年の記念行事として、こうした健康や飢餓の問題を中心に、世界の困窮している子ども達に手を差し伸べる運動を展開したのです。
 当RI2650地区の一例をあげますと、1982年に香港のベトナム難民収容所に衣料品の提供を行っていますし、1983年にはタイのインドシナ難民へ毛布の提供を行いました。また、奈良県のロータリー・クラブが連合して1979年インド・カルカッタの大水害被災者に中古衣料品の贈呈を行っています。
 さらに1986年には、インド・アイキャンプと呼ばれる活動を実施しました。これは白内障治療のため、医師と看護士をへきちに派遣するという活動で、このときはブッダガヤに行っています。いずれも各クラブのメンバーやガバナーも一緒に現地で奉仕活動を行なっており、海外が身近な活動の場になったことを感じさせます。この年、日本の会員数が10万人を突破しました。

「決議23−34」の存続をめぐる論争とロータリーの哲学
 大分遡りますが、1922年ごろに身体障害児を救う運動をしていたアメリカ人がロータリーに入って、これをロータリーの主たる活動にしたいと考えたことがありました。それに対して、本来ロータリーは個人として職業人が研鑽するクラブだから社会問題には「関心を抱くだけでいい」という反論が起こりました。その後1923年にセントルイス宣言と呼ばれる「決議23−34」が採択され、それがロータリーの「奉仕の哲学」を明快に表現した文書として、手続要覧の社会奉仕の項に明記されてきました。
 ところが、1984年に「手続要覧」を改定する際、そっくりこの部分が削除されていたのです。このことに一番反発したのは日本のロータリアンで、たちまちたくさんの反対意見が国際ロータリーの本部に寄せられました。日本のロータリアンの多くは、ロータリーの奉仕と哲学にひかれてメンバーになった人も多く、この部分を削除すればロータリーは単なる慈善団体になってしまう、と考えたようです。本部の説明は、このような哲学は今日では受け入れ難く、また規制の面が強すぎて奉仕活動に遅れをとっているというものでしたが、結局は、日本側の主張を受け入れ撤回し「決議23−34は今後とも有効です」という結論になったのです。
 奉仕することによってコミュニティーにはむろんのこと、世界中にたくさんの知り合いが生まれます。これがロータリーから受けた最大の恩恵だ、と佐藤千寿氏が「人作りロータリー」という著書の中に書いておられます。奉仕するもの「報われる」の英文はprofitですが、マニラの大会に出席した際、ポール・ハリスはその意味を聞かれて、ドルでもセントでもなく人生の「something(何か)」だ、と答えています。一心に奉仕をしたことで「ああ自分は意義のある人生を送れた」としみじみ思うとしたら、それも「something」なのではないでしょうか。

ベルリンの「壁」が崩壊するまで
 第2次大戦後、ソビエト連邦諸国はもとより、東独、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、バルト3国、バルカン諸国といった東欧一帯は44年間にわたって共産圏に組み入れられていました。その間、元ロータリアン達は集会を禁止され、まったくロータリーの活動は休止していたのです。
 1989年、ソ連の共産主義が破綻し、ベルリンの壁が崩れ落ちるとともに、ドイツのロータリアンはどの国よりも先にロータリー・クラブを復活し、東欧諸国にロータリーを復活させるための指導的な役割を果たしました。彼等は東欧諸国を80箇所以上何度も訪れて鋭意クラブを新設したと言われています。
 1990年度末にはロータリーに加盟している国および地域数は172に増え、クラブ数は25,160、メンバーの数は遂に1986年度に100万人を突破して、この年度には112万1230人に達しました。
 1990〜1991年度のパウロ・V.C.コスタRI会長は「われらの天体である地球の保全」プログラムを提唱し、2000を超える環境プロジェクトが実施されました。冷戦が終結し、アメリカの一極時代がスタートするわけですが、このころから地球環境保全の問題がクローズアップされてきたと言えます。ロータリーが制作した「共有財産、地球を守ろう」はアメリカのテレビ・ビデオ協会の金賞を受賞しています。

ロータリー・クラブにも女性のメンバー誕生
 ロータリーはもともとは男子オンリーのクラブだった、というと今は驚かれる方も多いのではないでしょうか。
 しかし、例えばニューヨークで最も由緒のあるプライベート・クラブのひとつにNYAC(ニューヨーク・アスレティック・クラブ)があります。セントラルパークの南側の一等地に22階建ての大きな自前のビルを保有し、ビルのなかにはオリンピック級の水泳プールや柔道、フェンシング、レスリング、体操の練習施設が完備しており、立派な宴会場、食堂、バー、読書室、ホテル並みの宿泊施設が完備した立派なクラブですが、ここもごく最近までは男性オンリーのクラブだったのです。
 (表向きの理由はここのプールでは全員、生まれたままの姿で泳ぐことに決められていたからなのですが)
 ロータリー・クラブに関して言えば、しばしば夫人同伴のパーティーを開いたり、家族ぐるみの会を実施したりしてきて、別に女性を排斥しているわけではない、という説明をしていたようですが、実際には正会員は男性に限られていました。
 しかし、1978年に女性の入会を認めたカリフォルニア州デュアーテのロータリー・クラブを除名したために、逆にRIが訴えられるという事態がおこったのです。10年がかりの裁判ののち、1987年に最高裁で敗訴したことから、アメリカでは女性会員を認めざるを得なくなり、1988年にはカナダでも認めることになりました。このような環境の変化を踏まえて1989年のシンガポール規定審議会で女性の入会が公式に認められるようになりました。前述のニューヨーク・アスレティック・クラブもこの頃から女性会員を受け入れています。日本では1989年にRI2500地区・北海道清水(現、清水RC)に日本初の女性会員が入会されておられます。
 世界の人口を見れば男女の比率は48対52で女性の方が多いのですから、女性を入れないというのは不自然ですし、今では女性が政財官界などあらゆる分野で果敢に活動している時代ですから、今後もより一層女性のロータリアンには活動して欲しいと思っています。
 2005年5月にシカゴで開かれた国際大会でステンハマー会長は、今年を「ロータリー女性年」にしたい、と述べられ、全世界120万人のロータリアンのうち、女性会員はわずか14万4000人に過ぎないことを嘆かれました。しかし今年4月現在165,000人を突破しています。当地区としても、もっともっと女性会員を増やして行かなければと考えています。

1970年から1990年のRI2650地区クラブ拡大
 1970年から1990年は、当RI2650地区では以下のクラブが誕生しています。1970年には奈良西RC・京都乙訓RC・福井南RC・亀岡RC・草津RC・京都城陽RC、1971年には守山RC、1972年には大津西RC・大津東RC、1973年には京都伏見RC・京都西南RC・京都洛北RC、1974年には三国RC・福井東RC、1975年には桜井RC、1976年には長浜東RC・京都西北RC・紫野RC・生駒RC、1977年には武生府中RC・高島RC、1978年には丸岡RC・京都八幡RC・彦根南RC、1979年には京都西山RC・奈良大宮RC・福井西RC、1980年には京都洛中RC・五箇荘能登川RC・王寺RC、1981年には福知山西南RC・園部RC、1982年には京都洛西RC、1983年には野洲RC、1984年には鯖江北RC・栗東RC・平城京RC、1985年には大津中央RC・京都洛南RC、1988年には京都洛東RC・びわ湖八幡RC・京都北東RC、1989年には甲西石部(湖南)RC・京都桂川RC、1990年には滋賀湖北RC・京都山城RC・宇治鳳凰RC・奈良東RCの48のクラブが誕生しております。(以下次号)

ロータリー財団の管理委員会が、国際理解と平和のための基金 (1994年にロータリー財団恒久基金と改名)を設立。 3-Hプロジェクトから、ポリオ・プラスに発展。世界中のロータリアンが、ポリオ撲滅のためにWHO、UNICEF、CDCと提携。


spacer.gif
spacer.gif
Copyright 2005 Rotary International District 2650.
spacer.gif
spacer.gif