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spacer.gif ガバナー月信2月号
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ロータリークラブ「奉仕の一世紀」(2)  (1915〜1929)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

日本に誕生したのは1920年9月1日
 1915年には世界のロータリークラブの数は186に増え、世界を19の地区(District)に分割しそれぞれの地区にガバナーが置かれました。1919年には東洋最初のクラブがフィリピンのマニラに誕生し、翌1920年には日本最初のロータリークラブが東京に誕生しました。今回はまず日本にクラブが誕生するまでの経緯を振りかえってみたいと思います。
 アメリカがそれまでの中立を捨て、第1次大戦に参戦した1917年。この年の10月に三井信託社長の米山梅吉氏が日本政府の財政調査委員として訪米しました。正月をテキサス州ダラスで迎え、三井物産ダラス支店長で、ダラスのロータリークラブのメンバーでもある福島喜三次氏と出会ったことが「運命の出会い」だったのです。
 米山氏は、東京英和学校(現青山学院)で英語を勉強し、1887年に渡米。サンフランシスコの福音会寄宿舎に入り、1895年の帰国までの8年間にオハイオ州のウエスリアン大学や、ニューヨーク州のシラキュース大学で学びました。1893年のシカゴ世界博覧会では、日本の出展品の説明をする仕事を担当しています。帰国後、三井銀行に入社して重役になり、その後三井信託を創設して社長になりました。そういった経歴からアメリカの社会にも詳しく、福島氏からロータリーの理念を聞いて「利己のない奉仕(Service,notSelf)」という標語にひどく感動したようです。
 1920年1月に帰国した福島氏は、ダラスのクラブ会長から日本にもロータリークラブをつくるよう勧められ、国際ロータリー・クラブ連合からは「特別代表」に任命されていました。そこで早速米山氏に会って、6月までにロータリーを作りたいのでメンバーを集めてくれと依頼したのです。しかし、当時はあまりこうした素地のない日本でしたので、6月という期限では難しかったようです。
 結局、設立総会が開かれたのは9月1日のことで、24名が出席し、会長には米山梅吉氏が、幹事には福島喜三次氏が選ばれました。国際ロータリーから正式に加盟承認を得たのは、翌1921年4月1日のことで、登録番号は855番でした。

ロータリーの活動を認識させた関東大震災
 設立総会に出席したチャーターメンバーは、いずれもきわめて厳格な資格選考を経てメンバーに選ばれており、とくに語学力が重用視されたようです。当時のクラブの記録や通信はすべて英語で行われていたと言われています。
 また、当初の例会は月1回の開催はとてもできず、2カ月に1回、それでも出席率は半分というところだったようですが、米山会長は会員を規則でしばるよりも、まず理解をもとめることに専心していました。1922年3月に第2代会長になった弁護士の宮脇恒次郎氏も厳格なロータリアンであったようですが、週1回の例会を定着させるところまではいかなかったようです。しかし、国際ロータリー連合会の本部には毎月きちんとレポートを送っていたため、シカゴ本部は東京のロータリークラブの活動を十分認識していたようです。
 1923年9月1日午前11時58分。東京大震災が起こったときの、シカゴ本部の反応は迅速でした。この地震はマグニチュード7.9。ちょうど昼食時ということもあって、各地で家屋が倒壊するとともに火災が発生し、東京、神奈川、千葉などで死者9万人、行方不明1万3000人という大きな被害が発生し、その状況は全世界に伝えられたのです。
 国際ロータリー連合会からガイ・カンデカー会長のお見舞のメッセージとともに、義援金2万5000ドルが送られてきました。加えてシカゴ・ロータリークラブから1500ドル、サンフランシスコ、ニューヨークはじめ世界17カ国503のクラブから義援金や救援物資が送られてきたのです。義援金の総額は8万9000ドルにも上りました。
 しかも、ロータリーが動いたことで、地震発生後わずか60時間後に米艦隊が食糧救援物資を積んで横浜港にやってきたし、米政府もマッコイ少将を派遣して赤十字とともに救援活動にあたらせたのです。
 東京ロータリークラブはこの素早い救援活動に感激し、身をもってロータリーの素晴しさを認識したのです。早速、義援金を使って東京・横浜の被災小学校188校に備品を送ったり、殉職した警官の遺族に見舞金を届けたりしました。こうした活動を通して奉仕の精神を学んだと言えます。
 この後の東京ロータリーは例会も定期的に行われるようになり、東京孤児院のなかに1棟を寄贈して「ロータリーホーム」と名付け、ここでロータリアンの家族が集まる家族会も行われました。

大阪、神戸、名古屋、京都にもロータリークラブ誕生
 話しが多少前後しますが、大震災の前年、1922年に福島喜三次氏が大阪に転勤になり、すでにロータリーに関心を抱いてシカゴの本部を訪問した経験をもつ星野行則氏とともに、大阪にクラブを発足させます。1922年11月1日のことでした。前述の大震災のメッセージは、東京の通信回線が跡絶えていたため大阪ロータリークラブを経由して東京ロータリーに伝えられたということです。
 1924年、大震災の翌年には、神戸、名古屋にもロータリークラブが発足しました。
 さて、わがRI2650地区のうち、京都にロータリークラブが誕生したのが、1925年。翌年の1926年暮れに大正天皇が崩御され、年号が昭和にかわった頃のことです。
 発起人は京都商工会議所の専務理事で、生糸問屋の竹上藤次郎氏です。当時の日本はまだ「地区」になっておらず、東京の米山梅吉氏が国際ロータリーからガバナーにかわるスペシャル・コミッショナーに任命されていました。竹上氏は米山氏を訪ねていろいろ教えをうけ、7月に18人を集めて発足のための懇談会を開きます。ここで、毎週1回水曜日に昼食会を開くことを申し合わせ、竹上氏のほか、後川文蔵氏、広岡伊兵衛氏の2氏を委員とすることになりました。そして、1925年10月17日、京都ホテルで設立総会が開かれ、登録番号2184、日本で5番目のロータリークラブが京都に誕生したのです。初代会長には建築学者の武田五一氏が選ばれ、副会長は竹上藤次郎氏、幹事にはホテル経営者の井上武夫氏が選ばれました。
 1926年5月には日本各地のロータリークラブを集めた第1回インターシティー・コンファレンスが大阪で開かれ、連合会の結成などが議論されます。そして1927年10月の第2回コンファレンスで「日本地区」の導入が決まります。実際に承認されたのは1928年8月のことで、日本地区は第70地区となり、初代ガバナーには米山梅吉氏が選ばれました。この地区に含まれたロータリークラブは東京、大阪、神戸、名古屋、京都、横浜のほかに京城(ソウル)が入っており、やがて大連(1928年)、奉天(1929年)、ハルピン(1930年)、台北(1931年)が含まれました。

第1次大戦終結から1929年の世界大恐慌へ
 ここで目を日本から世界に戻すことにしましょう。アメリカは1917年に第1次大戦に参戦したのですが、これで力を得た連合国軍はドイツ・オーストリアを破り、翌1918年11月ドイツが連合国に降伏して戦争は終結します。
 しかし、第1次大戦後の世界は短期的に戦争景気で繁栄したものの、1921年ごろから不況となり、とくに1929年10月にはアメリカの株式市場が暴落。銀行は破産し、多くの会社が破綻して、町には失業者がむなしく職を求めてさまよい歩く風景が見られました。しかも、この影響はアメリカだけに留まらず世界中に広がったのです。
 大戦終結後の2年間はロータリーにとっては目覚ましい発展の時期でした。全世界のクラブの数は415から758に増え、会員数は16300名になっています。しかし1929年の大恐慌の影響はロータリークラブにとっても大変なことだったと伝えられています。メンバーの殆どは企業人ですし、その企業が破産したわけですから。
 多くのクラブでは、会場をホテルやレストランでなく、教会の地下室などに変えたり「弁当持参」を許可することで経費削減をはかりました。
 こうして、会員自身も経済的に苦しんではいましたが、世界各地のロータリークラブは、それぞれの地域で最も困窮している人々を助けるプロジェクトを立ち上げていたのです。アルゼンチンのバビア・ブランカ・ロータリーは毎日数百人の貧しい人々に食事を提供する給食施設を設けたし、米国テネシー州のクラブでは、例会の食事をスープとクラッカーだけにして、節約した経費でお腹の空いた学童に食物を与えるプロジェクトを実施しました。
 この時期ロータリークラブの哲学と理念を明確にするため、1915年には「道徳律(TheRotary Code of Ethics)」がサンフランシスコの第6回国際大会で採択されました。また1923年には「ロータリーは慈善団体ではないのでは」という一部会員の反発に対して「奉仕の意味」を明確に定めた「23〜34決議」がセントルイスの第14回国際大会で採択されています。(以下次号)
米山梅吉
米山梅吉ロータリークラブ時代
京都ロータリークラブ創立披露会
(京都RC創立75周年記念誌より)


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Copyright 2005 Rotary International District 2650.
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