ロータリーの展望
RI元理事 小谷隆一
〈ロータリーは曲り角にきている〉
〈ロータリーは何処へゆくのか〉
といった言葉が交わされるようになってから、何年たったろうか。ここ10年ばかり私どもは同じ言葉をくり返しているのではないか。
だが、ふと気がつくと、いつのまにか大きな曲り角を通りこしてしまっている。平穏無事に変化しているように思える。ただ内部に何か釈然としないものを残しながらではあるが。
急激に強大化してゆくロータリーの実体を見て、憂いをもってその行く方を観察している人も少なくないだろう。たしかに国際ロータリーの理事会はロバート・ルールスの規定のもとに情熱をこめた議論を展開し、関連の委員会では真摯な討論が繰り返されている。
現在活躍している3万近い全世界のロータリー・クラブはポリオ・プラス、国際親善奨学生、GSE、WCSなどそれぞれ立派な事業を行なって世界的な貢献を果たしている。
しかし、創立100年という年を間近にひかえてこのまゝでよいのか、といった不安が残っている。今一度、ロータリーの持つ概念を洗いなおし、過去をふり返って自省し、再構築するべき時ではなかろうか。
明確な目標の設定を
すべてのロータリアンは4つの綱領を充分に理解し、ロータリーの理念を熟知している筈である。しかし、急激な組織の拡大によりいくつかの混乱を生じていることも確かである。組織の運営の方法が複雑になりすぎ、その為に起る混乱であるといって差し支えない。その複雑さを解消するためにさらに規則を作って煩瑣さを倍加するという追っかけごっこである。
年間5回開催される国際理事会では、毎回約80件の案件が上程され、約4分の1が成文化されて残る。規約が増えるために手続要覧だけではまとめられず、最近〈Code of Policies〉というA4版で500頁近い法典が作成されている。
私は理事会で再度にわたって中国の〈法三章の教え〉について私見をのべた。法律というものは、殺人・傷害・窃盗の三章さえあれば良い。法令は簡単にするべきであるという史記の言葉である。巨大な組織がただの三行の法律で処理できるものでないことは論をまたないが、為政者にとって心すべき教えである。
ラビッツア会長は方針の一つとして複雑化した組織・規定の簡素化を取り上げたが、高く評価されるべきである。
理事会はRIの地区の規模について数字をもって規定した。一つの地区は75クラブ・2700名をもって基準とし、それに満たない地区は認められず、統合していくことを奨励するというものである。少人数クラブ・少クラブ地区の統合という難しい問題は残されるが、発展していくロータリーを管理運営していくうえで不可欠の条件である。
ただ一応の目安がついたとはいえ、この目標値はいつまで有効さを保つのだろう。一方において激しい会員増強運動が行なわれており、バランスのとれた拡大を意図するためにはこ機会に綿密な長期計画を設定することが重要な急務であると考える。
巨大な組織となったロータリーをさらに発展させるためには、一部門だけの改変でなく、関係する他の部門との均衡の保たれた統轄が必要である。
人生哲学である〈決議23-34〉
〈23〉といえば1923年、現在から70余年も昔につくられた決議である。その古い規定が今なお日本の中高年層のロータリアンの心に深く浸透している。
1992年アナハイムで開催された規定審議会において、一時期削除されていた23-34の決議文を復活させようと、当時の蔵並RI理事が懸命な尽力をされたことは記憶に新しい。
〈ロータリーは基本的には一つの人生哲学であり、それは利己的な欲求と義務およびこれに伴う他人のために奉仕したいという感情とのあいだに常に存在する矛盾を和らげようとするものである〉
〈ロータリークラブの社会奉仕活動は、会員に奉仕訓練を施すために考えられたいわば研究室の実験としてのみこれをみるべきである〉(手続要覧 第6章 社会奉仕第2項より)
と説き、その他、クラブがひと固まりとなって行動するだけで足りるような事業よりも広くすべてのロータリアンの個々の力を動員するものの法がロータリーの精神によりかなっている、など、適切な行動規範を示しているのである。
日本へロータリーが拡大されてきた大正から昭和にかけては、現代の如く哲学軽視の風潮はなく、哲学についての関心が非常に強い時代であった。ロータリーが日本の各都市へ燎原の火の如く拡大していったのは、ロータリーは一つの人生哲学である、というこの言葉に大きな共感を得たからであろう。
若年層のロータリアンはこの条文に反応を示さないかもしれないが、中高年の我々にとっては、ロータリーの理念の基盤としていささかも忘却できない条項である。
ロータリーは報いられる
長年にわたって「超我の奉仕」と「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」の2つが公式標語であったが、前者がロータリーの第一標語である、と手続要覧は規定している。後者を第二標語とはきめつけていないが、格落ちであることに変りはない。報いる、という語を物質的に考え、宗教上の問題があるといった理由だときいているが1989年の規定審議会で規定されている。
英文では報いられるの字句はprofitとなっているが類似の語にbenefitがある。日本語でも「トクをする」のトクは「得」と「徳」と2つが使われる。手元の辞典によると前者は「もうける、利益」となっており、後者は「修養によって得た、自らを高め、他を感化する精神的能力」と記されている。
10年ほど前、私がガバナーをつとめているとき、西村大治郎パストガバナーが月信に“ロータリーの10徳”という一文を寄稿していただいたことがある。ロータリーは紳士の修養道場であるから長期間にわたってロータリー生活を続けている間にめざましい人間的成長をとげる。視野が広くなる、行儀がよくなる、謙虚になる、話術がうまくなる、社交的になるなどの10項目をあげ、もしロータリーに失望を感じている人があるなら、これらの恩恵に浴するように努力してほしい、と述べておられるが時宜に適した明察である。
この徳を手に入れるかどうかは本人の心構え一つによるのであって、例会に昼ご飯を食べに来るだけをもってロータリアンであると自負しているようなことでは徳は得られず、不徳のいたりということになる。
「最もよく奉仕する者、最も多く報いられる」というモットーの通り最も多く報いられて当然である。「報いられる」は決して物質的な面をいうのでなく、奉仕活動を続けているうちに、自然に徳が身につき良き人間形成がなされていく、と考えていただきたい。
人間形成を
先に少しふれたように、私ども先輩パストガバナーにロータリーは紳士の修養道場であると力説された方があった。けだし名言である。
ロータリーは、国際間の理解と親善と平和を推進するために奉仕活動を行なうものであるが、その活動の過程において、修養をつむことにより、すばらしい人間をつくりあげる人間形成がなされていくのである。
たとえば時間を大切にすること、自らの時間を厳しく規制するだけでなく、他人と約束した時間を厳守することによって規律正しい生活が出来る。約束した時間をたがえることは相手の人の貴重な時間を盗むことになる、いわば泥棒をしているのと同じである。
また与えられた時間が長くても短くてもそれに適合したスピーチを簡潔に行なう術も覚えるようになる。ロータリーの会合がそれらを修得するための場であるが、幅広い異なった職業の会員をもっていることもロータリーの特徴である。
多くのロータリー・クラブは30歳から70歳代の会員で構成されているが、このような年代層のあることも一つの魅力である。価値観の相違もあり、時代の風潮の差異も見られるが、年代の違いをのりこえて会員は平等な立場に立っている。そしてお互いに教え合っている、というのがロータリーである。時には年令の差によって互いの欠点が浮きぼりにされ、他人のふり見てわがふり直せ、という反面教師の役割を演ずることもある。
また、奉仕活動を行うにあたっても、対象を決定するまでの調査、救済方法の検討など専門的な知識による研究など多くの課題をクリアーしていかねばならず、長期にわたる社会勉強が必要になってくる。
最近の風潮として倫理精神の低落がみられる。
特に青少年を善導する道が閉ざされているようだ。かつて教育の場であった家庭や学校が充分その機能をつくさないために社会問題になっている。事件も多い。物質的な豊かさに圧倒されて心が通わなくなっているのだろう。
私はこのような問題を考えるとき、かつて全人間的教育をうけた旧制高校時代の経験を懐しく思い出す。青少年のかかえる問題はロータリーが関与しなければ誰が救済の手をさしのべるのか。大きな課題である。
エリート意識を
辞書によれば、ある社会や集団のなかでそのすぐれた素質・能力及び社会的属性を生かして指導的地位についている少数の人を“エリート”と解説している(大辞林)。
あるいは又、“選ばれた人、すぐれた人物、よりぬき”という訳もみられる。
しかしわが国においては、あなたはエリートですよ、と言われたら、余り良い顔をしない人も少なくない。事実、コンサイス英和辞典のエリートの項には“排他的派閥”という訳が記載されている。それほどまで特別視しないにしても、尊敬される意味にとられていないのが通常である。
しかし私は、ロータリアンはエリートであってほしいと思う。そしてあるべき姿を正しく認識しエリートとしてふさわしい活動を展開されることを願っている。
地域社会の中である種の権力をもった特権階級とは全く異なる、真のエリートとは次のような要件を備えていなければならない。
行動において、常に謙虚と誠実さとを身につけていることが最大の条件である。いかに立派な奉仕活動を行なっていても傲慢であり愛情の乏しい人はエリートとは称しにくい、エリートは心にみちた愛情をもっていて、多くの人々から尊敬される人である。社会のリーダーであってそのために常に精進をつみかさねていかなければならない。
強要することによって人を動かすのでなく、感動を覚えて喜んで仕事をするように導くのがすぐれたリーダーだといえる。奉仕の理想を実践するときに、先輩や友人からその為の術を教えられ、エリートとしての途を歩んでいく。それがロータリアンの恵まれた環境ともいうべき利点である。
またそのような立場に育てていただいたことを社会の人たちに対して感謝するとともに、恩返しをしなければならない。このようなエリートが一人でも多く育ち、一人でも多く世界の平和と繁栄の為につとめてこそ、ロータリーの理想は達成されるのである。
情報伝達の迅速化
与えられた紙数も少なくなってきたので、過去ばかりとらわれず未来の展望について記さねばならない。しかしロータリーのような巨大なエネルギーの塊である団体の未来展望は大へんに難しい。
本題にはいる前に触れておかねばならないことがある。それはIT革命についてである。
この文字は今や新聞紙面やテレビのブラウン管に登場しない日はなく、イギリスにおいて18世紀半ばに始まった産業革命にも匹敵する大変革だといわれている。
120万人もの会員を擁し160ヶ国をこえる参加をみている巨大組織であるロータリーにとって、情報伝達技術が発展することは文字通り一大革新であり充分に活用しなければならない。
エバンストン発行の機関紙である英文ザ・ロータリアン誌は、数年前まではいつも3ヶ月おくれでしか手元に届かなかったのに、現在はほぼアメリカと同じ時期に入手出来る。選別技術が不良のため同一の雑誌が重複して何冊も送られてくることもあったが、それも解消した。
RI本部や会長からの指示は、昔は航空便で早くて10日は要したが、現在ではFAXやe-mailを使用すると世界中どこへでも瞬時に送達することができる。まことに目ざましい発展で、ロータリーは非常な恩恵をこうむっている。
かつてジェット航空機が開発され、遠隔地への旅行が著しく便利になったが、現下の情報伝達技術の発達と併せて地球はますます狭くなってしまった。
ロータリーもこれらの技術の進歩により活動を活発化することができる。3万近い世界のすべてのロータリー・クラブとエバンストンの本部が直接e-mailで結ばれるのもそれ程さきのことではないだろう。
私が、国際理事をしていた時代においても、毎日2、3通の異なった種類の伝達がe-mailで送られており、事務処理は著しく迅速化されていた。
問題は受けたメールの処理についてである。
簡単に返答できるものばかりであればよいがそうとは限らない。詳細にわたる調査を必要とする案件も少なくない。他の仕事をしていればその間にメールがたまり、処理に追われて極度に多忙な日を送らねばならぬ。RIの仕事をしていれば自らの本業に時間をさくことは最小限にとどめざるをえない。
情報を伝達する技術の進歩は革命的であって、地球上に過去とは全く異なった世界を現出する。しかし伝達される情報の多量さに圧倒されてしまわないだろうか。
もうひとつ、握手をしてニコヤカな顔を見合って対話するときは心が通うものだが、コンピューターと向い合って情報を送るときは心の問題はどうなるのだろう。
このような課題はいずれは解消されるだろうが、しばらくの間は混乱招くと考えられ、コンピューターに力負けしないようソフトの面での開発などに努力してほしいと思う。
むすび
ロータリー生活で得られる〈徳〉の中で、最高のものは善き友人である。お互いに修練をつみ心の通い合った友人のできるのがロータリーである。1974年にRI会長であったウイリアム・ロビンスは、“ロータリーはよりよい人間をつくる。よりよい人間はよりよい世界をつくる”
と簡潔に述べている。奉仕の場においてのみならず、120万人のロータリアンの和の結集は、世界的な動乱の強烈な抑止力にもなることはまちがいない。
またその奉仕活動の面においても厳しい修練を伴っているので、いわば学びながら奉仕を行う、奉仕活動を展開しながら勉強をかさねていく、という努力をしており、他の団体にはみられない特性をもっているのである。
5年先の創立100周年を目標にポリオを地球上から撲滅しようというロータリーの大事業はすばらしい。些かも反論を加える意志はない。
ただ反省しなければならないのは、予想外の巨費を要したことである。日本のロータリアンは長びく経済不況にかかわらず常にアメリカにつぐ高額の費用を出費し貢献をしている。そのひたむきな姿には頭の下る思いである。同時に、数への志向が心への志向より上廻っているのではないかという懸念さえ感じるのである。
先にあげたロビンス元会長は、
“お金をいくら集めたということより、ロータリーにふさわしい会員を何人つくったか、ということの方が重要である”
と言っておられる。味わうべき一文である。国際ロータリーの運営費が不足するからとか、財団の基金が減じるから会員増強を図るという議論がとびだすようでは困った話しである。経常費が不足するなら数年前から日本で行なわれている激しいリストラを真似ればよい。
さらにポリオ・プラスの大事業が100周年の年にめでたく完了したならば、長期にわたり、巨大費用を要する事業は一休みするべきである。
会員増強についても同様であって、無理に背のびした活動を行わず、一時ストップして脚下照顧、よく自らを反省し長期にわたる計画を再構築するべきである。
お金を拠出して行なう事業より、自分たちの身の廻りで心と手によって行なえる奉仕を選ぶ方が尊いと思う。たとえば環境保全に関係した奉仕活動を推奨してはどうか。
私たち個人の家庭においてCO2の排出を厳しく規制するとか、企業の中で環境を汚染するような業務を排除するとか、いくつかの活動が考えられる。
会員増強にしてもロータリアン一人が一人づつ新会員を加入させるとか、各クラブで何名づつという割当てをつくるなどというのは愚策というべきである。
会員の増強は、ロータリーに魅力があるかどうかにかかってるという法則を忘れてはならない。
ロータリーにおける修養の効果が社会的に高い評価をうけ、また行なっている奉仕活動が正鵠を射たものであれば自然と人は集まってくる。要するにロータリーに魅力があれば会員増強は容易に行われるのである。
もうひとつ注意しなければならないのは数の観念にとらわれすぎないことである。数で解決するのは方法・手段の一つであってすべてではない。数に傾斜しすぎる為に本質論を外れることが少なくない。モノを重視しすぎてココロを失って過ちをおかすこともよく見られることである。
すばらしい先輩と友人たちに恵まれて今日まで築きあげて来たロータリーである。ここで破綻をきたすようなことがあってはいけない。思いがけない落し穴はよくひそんでいるものである。
ひとつ気掛りなことがある。財政が厳しいので会員の増強をはかる、会員が多くなれば管理費がかさみ赤字になるといった悪循環をくり返す、しかも中身は一向に進歩していないとなれば大へんである。
最後に、ロータリーは変化してもよいといっても、変ってはいけないものと、変化するべきものとがある。いうまでもなく、その可否を充分に分析検討を行なって明確な判断を下すことが必要である。
われわれ120万のロータリアンは手を結び合って世界の親善と平和の推進のために邁進することを、皆さんと共に誓い合って展望としたい。