title.gif
obj_head_bar.gif
spacer.gif
spacer.gif ガバナー月信8月号
line_02.gif

ポール・ハリスの歩んだ道(2)
RI2650地区2005〜06年度ガバナー 大久保 昇

わんぱくだったポール・ハリスの少年時代
 前回は3歳のポール・ハリスが父親に連れられて、ウォーリングフォードの駅に着き、祖父のハワードに迎えられたところまで述べました。この夜の記憶は鮮明に残ったとみえて、ポール・ハリスは自叙伝の中でも詳細に書き残しています。祖母は早速美味しいパンと自家製のミルク、そして山から採ってきた新鮮なブルーベリーを出してくれ、このいずれもが空腹を抱えたポール・ハリスには、すばらしく美味しく感じられたようです。これまで町で暮らしていたポール・ハリスにとって、ウォーリングフォードという田舎の村での生活は最初は戸惑うことも多かったのでしょうが、祖父母の愛情に包まれて直に慣れると、とても楽しかったようです。
 今でもバーモント州というところは牧畜の盛んなところで、私もドライブの間のんびりと牛が放牧されている風景を見てきました。州の人口は61万人にすぎませんが、牛はその半分、約30万頭もいるそうです。
 祖父のハワード・ハリスも果樹園と牧畜をやっており、また農場でさまざまな野菜を栽培していましたから、家で消費する食料の殆どは自家製で賄うことができたようです。ニューイングランドには当時も開拓時代からの伝統が残っていて、例えば石鹸なども自分の家で作っていた、と書かれています。ポール・ハリスも兄のセシルも農場の仕事を手伝い、牛の世話をすることも覚えたのです。
 こうしてポール・ハリスは、子供(チャイルド)から少年(ボーイ)に成長しますが、少年になったポール・ハリスはかなりの悪童になったようで、村人たちからはラプスキャリアン(いたずら坊主)と呼ばれていたようです。
 彼等のあこがれのまとは汽車で、ポール・ハリスも大きくなったら機関士になりたいと思っていたようですが、ある夜ウィリーという友達と二人で、汽車にただ乗りしてウォーリングフォードの南20マイル(32キロメートル)のところにあるマンチェスターという町を往復してしまうのです。当時の機関車は線路に寝ている牛がいたらこれを拾って乗せてしまうカウキャッチャーと呼ばれる排障器(一種の大型バンパー)をつけていました。これは結構大きな装置で子供が楽に二人乗れる大きさだったと言います。ウィリーは駅でアルバイトしたことがあり、夜10時30分発の汽車に乗ってマンチェスターに行けば、午前2時30分に戻ってこれることを知っていたのです。当時の汽車には機関士のほかブレーキ係、石炭をくべる缶焚きの3人が乗務していましたから、彼等の目を盗んでカウキャッチャーに乗り込むのは大変スリルがあったようですが――。
 祖父母がぐっすり眠っている深夜に、ポール・ハリスたちがこのような冒険をやってのけたことは、いまも語り継がれているエピソードです。

「しっかりものの祖父母」と「父母」の狭間で
 ウイスコンシン州ラシーンの町にドラッグストアをやっていた父親のジョージが、浪費癖のために破産に追い込まれ、ポール・ハリスとセシルの養育をウォーリングフォードの祖父母に任せざるを得なくなったことは、前回ご説明した通りですが、この一家はこの後2度再起しようと試み、2度とも失敗に終わっています。
 正確に何時のことかは定かでない、とポール・ハリスも書いているのですが、兄のセシルが叔母に引き取られて行ったあと、突然母親が訪ねてきてニューヨーク州のケンブリッジという町に住居をかまえたから、というのでポール・ハリスを連れ戻すことになるのです。
 ケンブリッジはただ乗りをしたマンチェスターからさらに南西に20マイルほどのところにある、バーモント州とニューヨーク州の州境に近い町ですが、ここで母親のコルネリアは音楽を教えて生計を立てるつもりだったようです。でもこれも結局長続きはしなかったようで、ポール・ハリスは再び祖父母の家に戻りました。
 2度目は祖父が父のためにもう一度ドラッグストアを買ってやろうと言いだし、セシル、ポール・ハリス、それに妹のニーナ・メイを含めて一家5人が、バーモント州フェアヘイブンに住んだときです。この町はウォーリングフォードの西25マイルのところにあります。
 このときは父もさすがに倹約を志し、母の妹であるスウ叔母やその子供達も同居したりして、にぎやかな生活が続いたようです。
 この生活が破綻したのは、父ジョージの発明好きでした。彼は昔からさまざまな発明に凝り、一攫千金を夢見る習癖が抜けず、ここでもパリス・グリーンという殺虫剤に似たじゃがいもの害虫駆除薬を作ってロンドン・パープルと名付けたり、下剤を発明して子供達を実験台に使ったりしています。これが高じてさまざまな化学物質を調合しているうちに爆発が起こって危うく一命を落とすところでした。
 近所迷惑だと言われて家をたたんだ両親は再びポール・ハリス達を祖父母に預け、コロラド州デンバーに引退しました。父はその後、目が見えなくなった母を車椅子に乗せて誠心誠意介護し、1920年代にこの世を去ったようです。一方、ウォーリングフォードに戻ったポール・ハリスは祖父が、息子のジョージから来た手紙を長いことかかって読み、ため息をつき、すすり泣いている姿を記憶しています。
 あくまでも倹約家で、質素を旨として、決して人の悪口を言わず、必死で救いの手を差し伸べようとした祖父の姿は、ポール・ハリスの心のなかに強烈な印象を残しました。

フォックス・ポンドにまつわる数々の思い出
 ポール・ハリスの自叙伝にはしばしばフォックス・ポンドと呼ばれる湖が登場します。父親の思い出のひとつに、この湖で水泳を教わった日のことが述べられています。ポール・ハリスが水に入ったのはこのときが初めてで、こわがったようですが、父親はいきなり抱き抱えてポール・ハリスを頭から水に突っ込んだのです。目を開けると今まで見たこともない不思議な、緑色をした世界が見えた、と書いています。
 フォックスというのはポール・ハリスの父の妹のご主人の名前で、この叔父が湖を所有していたためにこう呼ばれていたのです。現在はエルフィン湖と呼ばれウォーリングフォード町民の憩の場になっていました。駅の左側の坂を登ってさらに左折し、森の中を抜けると10分ぐらいで着くのですが、湖岸のビーチに出るためには、管理事務所のゲートで管理費として入場料5ドルを払わなくてはなりません。事務所の壁に看板が出ていて、いくつかの禁止事項が掲げられていましたが、そのなかに「マリワナを吸ってはいけない(NoGrass)」という項目があったのには米国の現代を感じました。
 少年時代のポール・ハリスは総体としてはウォーリングフォードの生活を、十分エンジョイしたようです。暇があれば山に行ってブルーベリー、ラズベリー、ハックルベリーなどの実を摘み、ロウリングブルックと呼ばれる渓流で美しい川鱒を釣りました。
 一緒にいたずらを仕掛けて回った悪童たちも、ポール・ハリスとは深い信頼関係に結ばれていたようです。後年、大都会のシカゴで親密な友人が欲しくなり、「寂しいこと」がローターリーを始める動機になったと言われますが、その素地はこうしたウォーリングフォードの幸福な少年時代にでき上がったと言えそうです。(次号につづく)


spacer.gif
spacer.gif
Copyright 2005 Rotary International District 2650.
spacer.gif
spacer.gif