[もくじ] 戦後の水曜会 / ミーンズの来日 / 復帰をはたす / 第60地区の発足 / 会員増強と拡大 / 『ロータリーの友』の発刊 / ロータリー創立50周年 / 「四つのテスト」 / ロータリー財団とその活動 / 米山奨学制度の発足と展開 / 念願の東京国際大会 / 青少年奉仕の取り組み / インターアクト・クラブの結成 / ローターアクト・クラブの成立 / 職業奉仕の展開 / 社会奉仕の実践 / 大阪万博とロータリー / 国際交流の成果と問題 / 道徳律の消滅と職業宣言 / 決議23-34号の存続 / 世界社会奉仕と3-Hプログラム / 子供を病気から守る ポリオ・プラス / 女性会員問題 / 地区の運営 / 阪神大震災と日本海重油流出事故

第3章
戦後におけるロータリーの発展

戦後の水曜会

 1945年8月15日に、日本をふくむ枢軸国側の敗北で第二次世界大戦が終わった。
 太平洋戦争突入前に、日本にあったロータリー・クラブ(略称 RC)は「自主的」にRIから離脱し、その多くは再度集まって独自の会合を続けていた。現在の第2650地区においては、京都RCが再組織された水曜会があった。水曜会のメンバーにとっても苦難の数年間がやっと終ったのだった。
 水曜会は戦時中も京都ホテルを例会場としていたが、占領軍の進駐にともなってホテルが接収され、例会場を失って一時休止し、翌'46年1月9日、四条にある大丸百貨店7階の大食堂の一隅を借りて再開した。会長はひきつづき石川芳次郎である。例会といっても食糧事情が困難を極め、手弁当を持参しての例会だったが、出席率はかなり良く62.55%を記録している。これは終戦直後の混乱の下ではかなり良い成績だった。
 水曜会のメンバーはRIへの復帰を希望するが、日本は敗戦国であり、被占領の状態でもあったから、ことは容易には運ばず、とりあえずは各地のクラブと連絡を取り合いつつ、復帰の道を探ってゆく。この間、大阪や東京では復帰の希望をRIに伝えるが、時期尚早としてしりぞけられている。
 ところで、日本のロータリーを設立した米山梅吉が疎開先の静岡県沼津で1946年 4月28日に、福島喜三次も同年9月17日に亡くなった。そして、ロータリーの創立者であるポール・ハリスが1947年1月27日にシカゴで歿している。79歳だった。
 '47年になると新たな動きが始まった。各地の各曜会(曜日クラブ)では、復帰に向けての連絡機関設置がはかられ、3月18日に東京の工業倶楽部に各地から有志が集まってロータリー復帰協議会が発足した。その第1回協議会が7月16日に開かれて14 の会が出席、小松隆会長が、活動を続けているクラブ18、会員合計1,050名など現状を報告した。この会には占領軍総司令部GHQからも出席があり、メンバーは本格的に復帰へ向けて動きだす。この会合に京都の水曜会からは石川芳次郎会長が出席した。第2回協議会は翌'48年7月に開かれ、16のクラブが出席し、京都から大沢善夫会長が出席した。
 このころ、RI中央アジア駐在員のジョージ・ミーンズがインドから帰米の途中、日本へ立ち寄るとの知らせが届いたのだった。京都へ帰った大沢会長は会員に、ミーンズの来日と、各クラブの視察、復帰の可能性を報告している。復帰の希望が見えはじめ、会員は定款や細則の整備、例会場の確保、食事の供給、家族会の復活など、クラブの再構築に熱心にとりかかった。

ミーンズの来日

 1948年夏の終り、ミーンズが日本へやってきた。彼は東京で復帰協議会と会合を行ない、GHQで総司令官D・マッカーサーからロータリー再建の熱意を確認して、東京、神戸、大阪と視察をかさね、9月3日の午後、京都へやってきた。この時のことを、ミーンズが後年に発表した「ジョージ・ミーンズ回顧録」(『ロータリーの友』'76年9月号から連載)で次のように語られている。すこし長いが引用しておこう(ミーンズに関する日付が諸書によりまちまちだが、ここではミーンズ自身の記述を採用)。
 「午後3時半に京都駅に着いた。階段の上で京都水曜会の幹事絹川清氏が迎えていてくれた。氏はロータリー・マークの入った赤旗と白旗を振りながら立っていて『この旗をしまい込んでから使うのは今日が初めてです』と言った。実際赤旗はそれまできつく巻かれて仕舞ってあったので、きちんとのびない。
  …………
 その晩開かれた京都水曜会の夜間会合に出席した会員は、全員とまでいえないにしても、ほとんどが英語を話した。『この水曜会をロータリー・クラブにするためには何をしなければならないか』会員達は一様にこのことを知りたがっていた。これに対し小松氏と私が、神戸と大阪でしてきたのと同じように説明した」
 ミーンズのこの訪問は和やかに終ったのだが、彼が説明した条件とは、次のことだった。
  1. 毎週例会を開くこと
  2. 職業分類の原則を忠実に守ること
  3. 地区ガバナー制度を超える、地区または地域的組織ないし管理運営体制を設けないこと
  4. 米国通貨を基準にして人頭分担金を支払うこと
  5. 国際ロータリーの行事、たとえば国際大会、地区大会などに積極的に参加すること
 これらの条件は、日本で復帰を望む会員が受け入れ難いものではなく、直ちに復帰許可が出てもおかしくないものだったのだが、RIは慎重に日本でのロータリーの復活を調査し検討したのだった。ハロルド・T・トーマス著『ロータリー・モザイク』には、RI本部において日本の復帰に強く反対する人たちがあり、それもあって慎重になったとの記述がある。
 ミーンズは東京にもどり、各曜クラブの主要メンバー15名と改めて会合を持って、全国のクラブ会員の希望を聞き取った後、9月7日に米国へ帰っていったのだった。

復帰をはたす

 ロータリーへの復帰が現実的な課題となって、1949年が明けた。
 3月9日、ミーンズが不意にふたたび東京にやってきた。今回は昨年9月の日本訪問の報告を検討したRI事務局が「日本でのロータリーの復帰を認める」決定に基づいて、彼を再建のため来日させたのだった。
 ミーンズは東京で各曜クラブがそのままロータリーに移行できない理由を述べ、変革と準備を求めた。その条件は、
  1. 現在の各曜会、各曜クラブを解散すること
  2. 国際ロータリーの定款細則を厳守すること
  3. 国際ロータリーの義務を完全に履行すること
であったが、注意が付いていた。『日本ロータリー・クラブ50年史』によれば、「各クラブの活動はそれぞれ国際ロータリーに直結するもので、戦前の様に日本のクラブだけで一つにかたまることのないように」ということであった。
 京都ではこうした動きを受けて、いちはやく3月16日に水曜会総会を開き、会の解散が提案されて満場一致で決定し、解散した。つづけて京都ロータリー・クラブ設立準備委員会が組織され、新会員の選考に着手、公職追放該当者や出席率60%以下の会員、職業分類上で不適当な会員をのぞいて、元の水曜会会員93名から57名を選んで、チャーターメンバーとした。
 じつは、ミーンズは、日本でのロータリーの復帰について、いくつのクラブを復帰させるかまだ決めていなかった。当面は東京を復帰させるが、あと数カ所をどこにするかが問題である。そこで東京以外に、22日に大阪、福岡、名古屋、京都、神戸、札幌の各曜クラブの代表を集めて会合を持ち、設立への行動を求めたのだった。京都はそれに先行して準備が進んでいたことになる。
 1949年3月29日、東京RCは設立され、復帰がかなった。このときには、時の首相である吉田茂が来賓として出席、マッカーサーが名誉会員となった。続いて京都が3月30日にミーンズを迎えて創立総会を開いた。そして、この年度の6月末までに復帰をはたしたのは大阪、名古屋、神戸、福岡、札幌を加えた7クラブだった。それぞれ戦前に加盟した時の登録番号が使用され、戦時中の各曜会時代の活動期間がクラブの歴史として含まれることも伝えられたのだった。こうして、戦後における日本のロータリー・クラブは船出した。

第60地区の発足

 1949年6月末までに一挙に7つのクラブが復帰をはたしたが、5月にはRIから日本のクラブを国際ロータリー第60地区とする通知が届き、7月の新年度から地区が正式に発足する。地区ガバナーにはクラブ復帰にも尽力した手島知健(東京RC)が就任した。
 日本全国を範囲とする第60地区は、'49年の7月19~20日に第1回地区協議会を東京で開催し、第1回地区大会を翌'50年4月に京都で開催する決定をくだした。京都は比較的に戦災にさらされなかったこともあって、選ばれたのだった。京都ではさっそく準備にとりかかり、大会委員長に鳥養利三郎と委員6名を指名した。
 9月下旬にはRI会長であるパーシー・ホジソン夫妻が来日し、京都で彼を迎えて西日本クラブ・アッセンブリーが開かれるなど、活動は急速に復活しはじめる。このときのクラブ・アッセンブリーでのホジソン会長による、ロータリーの4綱領にかかわる精神とその実践についての講話は、日本のロータリアンにとって、ひさしく聞かなかったロータリー精神を呼び覚ますものとなった。
 このホジソン会長の訪日に合わせて、'48年に彼が主体となって作成した文献『奉仕こそ我がつとめ』が、東京RCからいちはやく翻訳出版され、東日本クラブ・アッセンブリーで日本語版がホジソン会長に贈呈されている。
 この年の11月、京都RCでは職業奉仕の精神を実践しているとして9名の事務員を模範的事務員として表彰するなど、戦前にまして活発な活動が開始されている。そして、ガバナーによるクラブへの公式訪問も行なわれ、なにもかも急速にロータリーらしく動き始めたのだった。
 復帰した7クラブ以外にも、復帰を待つクラブは多かった。戦争が終った直後、戦前に離脱し別組織で持続したクラブが29、そのうち会合を戦後まで続けていたのが17で、それらの中から1949年中に復帰したのが20、新たに加盟したのが2となり、日本を地域とする第60地区は、'49年末で22のクラブを持つまでになった。復帰と新加入は翌年も続き、'50年には15クラブが復帰、新たに13クラブが加入している。そして、この年の12月をもって日本のクラブの復帰は終了し、以後は新たに加えられることとなった。
 1950年4月8日に復帰第1回の地区大会が京都の同志社栄光館で開かれ、RI会長代理のアンガス・ミッチェルが派遣されてきた。出席者は会員と家族あわせて627名にのぼり、成功裡に幕を閉じた。
 この第60地区は以後、急速に新規加入クラブ数が増え、'52年7月には2地区に(当地区は第61)、'55年には4地区に(当地区は第63)、'57年には5地区に(当地区は第365)とつぎつぎに細かく枝別れして行き、'70年7月の段階で、当地区は福井県、滋賀県、奈良県、京都府という現在の地域割りに落ち着いたのだった(地区番号は第365、のち第265、第2650)。

会員増強と拡大

 戦後、奉仕(サービス)への認識も高まり、新たなサービス・クラブも各種誕生する気運があった。こうした中で、ロータリーは活動をより広げ深めるため、会員増強に力を入れ、クラブ設立と既設クラブの会員増強が奨励された。
 そこで、復活したばかりの各クラブは早々に拡大にとりかかる。現2650地区で最初に新規誕生したのが福井RCだった。これは京都と大阪の両クラブがスポンサーとなった('50年12月)。それに続けて大津RC('51年1月、スポンサー・クラブは京都)、長浜('51年3月、京都)、翌年には奈良('52年5月、京都・大阪)と、まずは各府県の主要都市に誕生していった。
 こうした新しい地域への進出によるクラブ新設と並行して、既設クラブのテリトリーを割譲して誕生するアディショナル・クラブも誕生してきた。1954年3月に誕生した京都南RCがその最初である。これは京都市の南部を京都RCから割譲する形で誕生したもので、現2650地区としては9番目のRC、アディショナル・クラブとしては日本で6番目だった。京都では続けて京都東RC('56年6月)、京都北RC('57年9月)、京都西RC('58年2月)とつづくが、京都だけでなく、福井RCからできた福井北RC('58年)のように、戦後に新設されたクラブからも地域割譲によるクラブが誕生した。これは'70年代にはいって大津、奈良にもひろがった。そして後に京都東RCが京都山科RCを誕生させたように('68年4月)、割譲を受けた地域から再び割譲する例も現われる。
 そして、アディショナル・クラブのもう一つの作られかたが、地域を共有するクラブの誕生である。これは「二階建」とも呼ばれる設立の仕方で、この方式で当地区で最初に設立されたのが、ずっと後になるが京都洛中RCである('80年5月)。この同一テリトリー内でのクラブ誕生には異論も出た。地域割譲をし、さらに同一地域内にクラブができることは、既設クラブの低下を招きかねない、という問題だった。しかし、会員数が増えて交流が希薄になる危険性と、職業分類において加入が困難な会員候補者の問題などが議論され、結局、規定にそって同一地域内に新設クラブが次々と誕生していく。このように、クラブの設立事情は多岐にわたるが、第2650地区内でのクラブ設立の推移は、1940年代が1(復帰した京都RC)、'50年代が20、'60年代が11、'70年代が27、'80年代が17、'90年代が15、総計91クラブである。
 会員を増やすことも精力的にまた持続的になされた。ロータリーには職業分類にもとづく一業種一会員という原則がある。この職業分類をどう充足するか、これが各クラブの重大な問題だった。RIから指針となる冊子が出ているが、職業分類はその地域の社会・経済における特徴を表すこともあって、各クラブは毎年8月に、RIの指示により職業分類表の点検・作成に力を注いできた。そして、項目にありながら会員が未充填なものについて、候補者推薦の要請が精力的になされ、会員を増やしていったのだった。
 ちなみに、1949年に再建された京都RCはチャーター・メンバーが57名、'50年は会員69名で戦前の水準を回復し、'51年に87名、'52年90名、'53年98名、'54年104名、'55年には116名と増加し、再建時の2倍を6年で達成した。その間には退会者もあり、京都南RCへ地域割譲がありながらの増加であることを考えると、まことに急速に会員が増えたといえる。
 これは日本のロータリーに共通した傾向だった。1952-'53年度RI会長のH.J.ブルニエはパリの国際大会で、当時の日本での会員の急速な増加を phenomenal(驚くべき)という言葉で表現した。この語には「異常な」という意味もあり、RI本部での日本に対する関心の度合いを示しているだろう。実際、第61地区では、'53年から'54年にかけてクラブ数で50から72(伸び率40%強)、会員数で1930名から2580名(伸び率33%)という急速な成長ぶりであったのだ。

『ロータリーの友』の発刊

 4月は「雑誌月間」である。ロータリーの機関誌『The Rotarian』は1911年に創刊され、発展につれて'33年にはスペイン語版が刊行された。国際的な性格を持つクラブにとって、使用言語の相違による意志疎通の問題は容易ではない。ロータリーはその解決の糸口を、地域雑誌(Regional magazine)に見い出してきた。
 この地域雑誌はRIの『The Rotarian』の主要記事を紹介し、会長の意志を周知させる意図もあるが、その地域固有の問題、会員の活動紹介など多様な内容をふくみ、地域の会員の関係を強める機能も期待された。すでに戦前から'15年創刊の英国、'24年創刊のイタリアなどこうした雑誌はあり、戦後に改めて「国際」が問題となって、地域雑誌は取り上げられた。
 ロータリー・クラブはその初めから活動を記録することに熱心で、各クラブもそれぞれ独自の会報を持っている。京都RCも復帰した1カ月後、'49年5月にはすでに、月刊ではあるが会報を復活している。
 1952年4月に開かれた第60地区大会で、日本語による地域雑誌の発刊が決定された。これは、復帰の'49年末に830名弱であった会員数が'52年5月には74クラブ2975名という、わずかの期間で会員数が急速にのびている背景と、英語版の『The Rotarian』では、英文記事そのものが読み難いという事情とともに、1952-'53年度から日本のロータリークラブが2つの地区に分割されることが予定されていたからでもあった。また、使用言語現地化の試みは、会員増強と情報の徹底という考えにも合致していた。
 『ロータリーの友』は'53年1月から月刊、横組で創刊された。この雑誌は最初は自由購読で定価50円。当時は、英和辞書を片手に英文の『The Rotarian』を購読していた会員が多く、厖大な売れ残りでスタートした。そのためもあってか、京都で開催されたロータリー50周年第60地区・第61地区連合大会で完全購読制が決議され、会員全員が購読する雑誌となった。以後、この雑誌は着実に地歩を固めて、'64年にはRIが主催する公認機関誌会議で編集技術部門において第1位となる実力を持つようになる。
 この雑誌の横組は'72年まで続いたが、縦組か横組かが改めて議論され、総ページの1/3を縦組にすることで現在にいたっている。
 『ロータリーの友』は'80年7月号からRIによって公式地域雑誌に指定され、購読義務のある公式雑誌の1つとなり、現在では日本で『The Rotarian』を読む会員は少数で、日本におけるロータリーの公式雑誌の役割を実質担うまでになった。'96年現在、『ロータリーの友』は14万部を超える月刊誌であり、加えて、英語版『ロータリーの友』が、'75年に季刊で創刊されている。
 なお、英語使用圏以外のロータリアンに向けての地域雑誌は、'99年の段階で21カ国語、27の地域で発行され、日本の『ロータリーの友』と同様、地域性を重視しながら展開している。

ロータリー創立50周年

 1954年にロータリーは創立50年目を迎えた。それを記念して日本のロータリアンは第60地区、第61地区連合の地区大会を京都で10月16、17日に京都市勧業館で開催した。参加者は全国から3,000名を数え、全国147クラブから参集した。大会での記念講演は、日本人で初めてノーベル賞を受賞したばかりの湯川秀樹氏による「原子と人間」で、時宜を得たものだった。
 RIから派遣されて来たのは、日本のロータリーが復帰する時にRI会長だったアンガス・ミッチェルだった。彼は復帰第1回の1950年の地区大会にも出席し、日本にも京都にも馴染みある人物だった。彼はこの大会でハーバート・テーラーRI会長のメッセージをたずさえ、自らも熱情あふれる演説を行ない、出席したロータリアンに感動を与えた。
 それを受けて日本のロータリアンは、大会決議第2号で「現在の社会情勢は内外をとわず、ロータリー精神の普及によって、健全なる事業の発達、明朗なる社会の建設、並に国際間の理解による親善と平和の確立を求むるに切なるものがある。依って我等ロータリアンは、先ずその精神に徹し自ら之れを実行に移し、ひいてはその影響を一般社会に及ぼすように努力することを茲に決議する」と述べ、続く大会決議第3号では、「国際ロータリー会長ハーバート・ゼー・テーラーは、吾等に示すにロータリー4つの進路に加うるに、特にロータリー50周年時に対する6つの目標を以てした。何れもこの50周年を記念するに最もふさわしい事柄である」として、つぎの6項目を示した。
  1. 過去を省み将来に備え、
  2. ロータリーの幸福を出来るだけ多くの人に及ぼすよう会員の増加を計り、
  3. ロータリアンとしての自己評価をするため4つのテストの実行に務め、
  4. 自ら青少年の模範となって彼等を指導し、
  5. あらゆる機会に国際的親善の増進に力を致し、
  6. 自己の社会的地位に鑑み善良なる国民となることに努力する
 この2つの決議に見られるごとく、2つの世界大戦を乗り越えて充実させてきたロータリーの歴史を踏まえつつ、戦後の清新な気風が組合わさった格調のある文言を、地区大会は記録として残したのだった。
 ロータリーはこれまで、個人が記述した歴史はあったものの、組織として公式に歴史を記述した書物を刊行してこなかったが、創立50周年を記念して、RIは"Rotary, Fifty Years of Service"と題する、ロータリーの歴史を概説した書物を刊行した。これで、世界におけるロータリーと自ら所属するクラブの関係が明確になると同時に、歴史的な正確さと、将来の展望が見通せることとなった。

「四つのテスト」

 戦後におけるロータリーの活動はめざましいが、それを裏付ける精神面におけるバックボーンづくりも活発に行われた。『奉仕こそ我がつとめ』の翻訳刊行もそのひとつである。
 RI本部では1950年6月に"Service above self"と"He profits most who serves best"の2つをロータリーの標語として公式使用を認めた。これは日本のロータリアンには一様に歓迎され、ロータリーの精神を支える重要なことばとして、時に応じて引用・参照され、議論され、プレートや名刺刷り込みなど各種のグッズとなって広められる。
 そして、1954-'55年度のRI会長を務めたハーバート・テーラーは、戦前から“The Four-way test”(四つのテスト)という自戒の標語で高名な人物だった。
 ハーバート・テーラーは1893年にミシガン州ピッグフォードで生まれた。両親は熱心なプロテスタント、メソジスト派の信者だった。青年期に第一次大戦をむかえたが、彼はフランスでYMCAに携わっており、そこから海軍に入隊、ここで自らの実務管理能力に気付いたという。戦後に結婚しオクラホマ州ポールズヴァレイで石油パイプラインの監督となる。ここから彼のビジネスにおける人生がスタートした。この仕事の後、リース斡旋、保険、不動産などの仕事につきながら実績を積み、当地の商工会議所会頭に就任し、財政や社会基盤整備の政策にもたずさわり、ロータリーにも加わっている。こうした経験が、後年の「四つのテスト」作成に深い部分で影響しているという。
 1920年代半ば、彼はシカゴに移りビジネスを続けたが、'29年秋の大恐慌をきっかけに、銀行からの依頼で、多額の負債を抱えて破産状態のアルミ家庭用品製造会社の再建にたずさわる。彼はこの会社の再建に、これまでの経験から導きだした、道徳と倫理に基づいた経営方針を採用した。これが標語成立のきっかけとなった。
 「簡単ですぐに覚えられるような行動方針」(倫理の物差し)あるいは「会社のものが暗記できて、取り引きの際、考え・言葉・行いすべての面に応用できる倫理基準」(H.J.テーラー著 菅野多利雄訳『我が自叙伝〔改訂版〕』1986年)を考えている時に、不意に思い浮かんで書き付けたのが「四つのテスト」だった。

  THE FOUR-WEY TEST
  of the things we think,say or do
  1. Is it the TRUTH?
  2. Is it FAIR to all concerned ?
  3. Will it build GOOD WILL and BETTER FRIENDSHIPS ?
  4. Will it be BENEFICIAL to all concerned ?

  四つのテスト
  言行はこれに照らしてから
  1. 真実か どうか
  2. みんなに公平か
  3. 好意と友情を深めるか
  4. みんなのために なるか どうか
 この標語は、考えや立場の違う者同士においても差し障りがなく、すぐさま皆に受け入れられたのだった。単純で明快なため、この標語には多言を要さない。
 この「四つのテスト」は破産状態にあった会社を次第に立ち直らせ、数年にして破産状態から脱出させた。彼はビジネスに、誠実が利益をもたらすこと、それが組織においても可能なことを証明したのだった。
 それに加えて、この標語が「最も有益で役に立ったのは、なんといっても一般の人間関係においてである」とテーラーが述べるように、個人の関係においてもこの「四つのテスト」は自らを律する普遍性を持つ言葉として、会社、学校など各所で使用されていった。
 ロータリーもその1つだったが、戦中の'42年にロータリーにこの標語の使用権を認め、テーラー自身がRI会長となって、この標語の版権をロータリーに譲渡したことから、「四つのテスト」はロータリーのものとして広まって行くこととなる。
 日本では、1954年10月に開かれたロータリー50周年記念第60、61地区連合年次大会において日本語訳が披露され、小菅第61区ガバナーから提案を受け、全会一致で上記の訳文を決定訳として承認、以後は日本語の「四つのテスト」が広まる(日本語訳は、本田親男が応募・入選)。

ロータリー財団とその活動

 1917年にRI会長のA・クランフはアトランタ大会で「世界中で善いことをする目的のために基金を設置することは極めて妥当なように思われます」と語った。提案は承認され、Rotary Endowmentがつくられた。
 しかし、資金は容易には集まらず、最初の寄付は、翌年のカンサスシティRCからの大会費用残金26ドル50セントだった。以後、数年で寄付は700ドルという状態だったが、'28年のミネアポリス大会で組織はロータリー財団(Rotary Foundation)として改めて正式に認証され、再出発した。ここから財団は徐々に成長し、数年後には基金が5万ドルほどになる。それに力を得て、'37年には目標を20万ドルにしたが第二次世界大戦ではたせなかった。
 1947年1月にロータリーの創設者ポール・ハリスが亡くなると、ロータリアンからこぞって多額の追悼寄付が寄せられ、財団基金は100万ドルを超えた。
 現在、国際親善奨学金と呼ばれるのは、'46年11月にRotary Foundation Fellowshipとして構想され、この財団基金をつかって'48年に留学生に奨学金授与が開始されたものだ。留学生は海外に留学し、現地で親善使節としても活動する。この試みは成功し、役割が認識されると、財団への寄付は増大していく。
 京都RCの『30年史』によると、'50年1月に「ロータリー基金の完遂を期すること。10$(3,600円)を1.3.5.6.の月に会員全部が分納する申合せをした」とあり、復帰1年たらずで、活動が奨学制度にまで及んでいることがうかがえる。
 1951年には財団奨学生が初めて米国から来日、東京大学へ入り関心を高めたし、日本からは'50年に最初の留学生をアメリカに向けて送り出した。
 ロータリー財団はRI理事会と財団管理委員会が運営するが、まず取り組んだのは基金の充実で、'53-'54年度では単独年度で5万ドルの基金が集まるようになり、10年後の1964-'65年度には100万ドルを超える。この背景には、各地区にロータリー財団委員会がつくられ、留学生の送り出しと、基金集めが並行してなされたことが指摘される。
 加えて、'57年からは1,000ドル寄付した者にポール・ハリス・フェローの称号が贈られ、1,000ドル寄付を宣言した人にポール・ハリス・準フェロー('68年)、寄付が計2,000ドルに達した者へマルチプル・ポール・ハリス・フェロー、遺言や遺産計画に恒久基金寄付を書き込んだ者にべネファクターをと、財団はつぎつぎに寄付奨励・顕彰の制度をつくる。また、財団活動に特に貢献した者に対してアーチ・クランフ賞や('67年)、ロータリー財団功労賞('73年)等々を設けるなど、意欲の引き出しに努力する。
 当2650地区では1996年6月に、世界515地区でも例のない年度の新規ベネファクターが614名、総数895名となった。これは地区会員数約6,600名の13%を超える。続いて、RIの掲げる創立100周年の2005年までに財団恒久基金2億ドルの目標に協力して、地区でベネファクター協力会を設置した。これは、参加者は月に1万円を寄付し、1年間で1,000ドルにしてベネファクター資格を取る。この方式で次の'96-'97年度には新たに473名が加わっている。当地区ではこれに加えて、'98年5月に京都紫竹クラブ全員がポール・ハリス・フェローとなった。日本で初めて、世界でも22番目で、財団から記念のバナーを受けた。
 また1997年から、日本において条件付きながらロータリー財団への寄付は税制優遇措置を受けるようになっている。

 ロータリー財団最初のプログラムは国際奨学金制度だった。目的は、 というもので、1948年に18人の大学院留学生が選ばれて始まった。彼らはロータリー・フェローと称され、日本からは'50年に大学院生が米国に留学、当2650地区の地域からは、'52年に京大薬学部の宮野成二が米国イリノイ大学に大学院留学した。受け入れは、'63年に豪州から京大建築学科に大学院留学したB・H・ミラーで、京都RCが世話したのが最初である。
 この奨学金制度は目的が、'59年に"For Advanced Study"から"For International Understanding"と変わりながら、ロータリーの進展と財団資金増加で拡大充実し、現在では、 と3つに分かたれて展開している。奨学金受領者は1996-'97年度で計1,277名にのぼり、国別では日本が388、米国が386、韓国101、ドイツ41などとなっている。奨学生の留学先は米国がその1/3を占め、日本は7番目の3%である。
 拠出金が財団全体の30%強を占める日本の、送り出しと受け入れの不均衡は財団でも注目され、1997-98年度から、より多くの留学生を日本へ迎えるため、試験的にジャパン・プログラムが発足した。
 1965年に財団の資金を使って始まったのが文化交流プログラムである。これは研究グループ交換(GSE)と呼ばれる。
 国の異なる2地区がペアを組みチームを交換、双方で数週間研修する、そこで見学や実習を通じて経済や生活様式等を体験し学習する。この交流にかかる交通費を財団が負担し滞在費は受け入れ地区が負担する。
 人道的プログラムはGSEと同じ1965年に発足した。これは国際奉仕活動を資金面で援助するもので、地区やクラブが出す金額と同額を財団が補助する制度である。この人道的プログラムはその後、RIによって企画された世界社会奉仕(WCS)を主軸に、大々的に展開しはじめる。この人道的プログラムは年ごとに多様になり、現在では、 などの分野に広がり、ロータリー本体の活動を財団が資金面でささえる形で展開している。
 また、寄付された年次プログラム資金は3年間投資され、利潤を含む全額が財団のプログラムに注がれるが、その内容に寄付を出した地区の考えを入れて決定するシェア・システムがつくられた。地区で資金の60%、財団で40%の割合でシェア(分割)する方法である。地区は資金に一定の権限で、援助・活動の具体的な内容を決定出来ることになった。国際財団活動資金と呼ばれるこの資金は、大地区である当2650地区では、配分が1999年度には85万ドルにもなる。この資金を地区独自の判断で国際奉仕活動、特に人道的プログラムのために活用できる。これを受けて当2650地区では補助金小委員会が設置された。

米山奨学制度の発足と展開

 日本のロータリー・クラブの創始者であった米山梅吉が亡くなったのは、1946年1月のことだった。彼は、戦前の日本におけるロータリーの指導者としてその発展に大きな影響をあたえた。ロータリーの組織運営はもちろん、文献を翻訳し紹介することに熱心であったし、奉仕にも強い意欲を示していた。その米山は日本のロータリーの復帰・再建を見ずして世を去った。
 それから数年、1951年に日本国は講和条約を結び被占領状態から抜け出し、経済復興も軌道にのりつつあった。この前年には、ロータリー財団の奨学生として日本人が渡米している。
 米山の示した姿勢と行動、それに加えて、日本がなした過去への反省、国際化の進展、ここから構想されたのが米山基金だった。
 この事業は、米山梅吉の所属クラブであった東京RCの単独事業として、1952年11月に会員に示された。構想の骨子は、「米山大人の遺徳を記念するために」設立し、海外(当面、アジア地域)からの学生の学費を援助し、日本で2カ年研究させるというもので、提案はロータリー財団に準じて事業がなされることで決定し、基金集めが始められ、翌年12月に240万円の基金で事業は始動した。
 東京RCは、ロータリーを通じてタイとビルマに候補生紹介を依頼し、第1回はタイから留学生が'54年9月に来日、東京大学農学部に留学して年間50万円を2年間支給された。また、連絡のないビルマ枠を転用して、すでに来日して勉学に励んでいるインド人留学生を選び、奨学金が支給された。
 こうして始められた米山基金だったが、3人目のインド人留学生に奨学金を給付したところで、資金が枯渇したこともあって事業は終了し、'58年に基金は解消する。
 しかし、この東京RCの活動は、所属する第60地区、となりの第61地区の注目するところとなり、'56年の地区大会で、両地区とも、この国際奨学金事業を全クラブの事業とする決議がなされた。こうして1957年9月にロータリー米山奨学委員会が結成され、関西地区のロータリー・クラブも協力して、基金を300万円ほど集めて事業がスタートする。そして'58年4月には8名の奨学生が誕生し、以後、徐々に奨学生の数も増えていく。
 この事業は各クラブが協力して行なうもので、事業が進展するにつれて参加するクラブが増え、'62年末にはほぼ全国にひろがって、日本各地区から代表委員が選任できるまでになった。ここには第365地区(後の第2650地区が含まれる)からも代表が出席している。そして、1967年7月には組織は財団法人ロータリー米山記念奨学会に発展・充実した。体制を一新させた米山記念奨学会は、1971年に米山功労者、米山功労クラブの制度を作り、'79年には米山ファンドフェローを、'85年には米山功労法人、米山特別功労法人を始め、財団への多額寄付への感謝を示すようになる。また'78年からは、米山奨学金への寄付がしやすい免税処置がほどこされることとなった。

念願の東京国際大会

 講和条約が発効し、被占領状態から脱した'52年に、手島知健(東京RC)がRIの理事に選ばれた。手島は日本の復帰時に縦横の活躍を見せて、早期復帰を実現した一人だった。以後、日本から'57年に小林雅一(東京RC)、'67年に東ケ崎潔(東京RC)、松本兼二郎(八幡RC)とRI理事が選ばれていく。小林は'58年6月にRI第一副会長にも就任している。これは、RIでの日本の発言力の増大と、日本の実情を本部に知らしめるに少なからぬ力を発揮した。
 日本全体を区域としていた第60区は'53年に分区され、石川・岐阜・愛知・三重各県以東の東日本が第60区、西日本が第61区となる。そして、'54年10月に開かれたロータリー創立50周年記念の第60、第61区連合年次大会が京都で開かれ、そこで1961年度の国際大会を東京に招致する要望が決議されたのだった。この要望は毎年決議され、ついに'58年に要望がかなって、'61年の国際大会が東京で開かれることとなった。国際大会を日本で、という希望は戦前にもあったのだが、戦争とクラブの解散で、はたせなかった経緯があり、古くからの会員にとっては20年越しの希望実現であった。
 東京で開かれるため、主体は東日本のロータリアンが東京RCを中心に準備するが、もちろん西日本の仲間も準備と宣伝に加わったのだった。"On to Tokyo"を旗印に、全世界からロータリアンを東京大会に参加させるべく、機会をとらえて、パンフレットはもちろん、大会におけるブースや扇子、法被などで華やかに広報が繰り広げられた。
 その成果があって、1961年5月28日に始まった前夜祭、翌日からの東京大会を通じて、当初の希望をはるかに越える74カ国から23,366名が参集した。晴海の国際見本市センターで開かれた本会議に天皇皇后両陛下をお迎えして開催された大会は、アジアで最初の国際大会ということで、その点からも意義深い大会となった。また、この大会で同じくアジアでは最初のRI会長(1962-'63年度)としてインドのカルカッタRCのラハリー博士が選出された。こうして、日本は欧米諸国以外で活動の牽引力を持つ地域として、ロータリアンに認識された。
 以後、'68年には日本から東ケ崎潔がRI会長に就任するまでになり、以後つぎつぎに日本から理事が就任する。当2650地区からは千宗室('88年)、小谷隆一('98年)の両氏が就任している。そして、1978年には再び東京で国際大会が開催され、会場の代々木競技場には95カ国から40,155名の参加者があふれた。
 なお、1982-'83年度には、日本から向笠広次が2人目のRI会長に就任している。

青少年奉仕の取り組み

 青少年への関心は早くからあり、1923年のセントルイス国際大会で「善良で健康な市民を育てる」青少年奉仕が討議され、当初は社会奉仕の一部として扱われたが、次第に青少年育成が重要課題であると認識され、第5の奉仕部門とされることもある。'40年には参考案「青少年への奉仕の目標」が承認され、'53年には「青少年への奉仕プログラム」として、 という指針を発して会員の行動を促した。
 現在、青少年に関わるロータリーの活動は、奨学金、青少年交換、インターアクト、ローターアクト、青少年指導者養成プログラム、職業相談指導、地域共同体、村落共同体、身体障害者援助などが採用されており、RIは9月を青少年活動月間('96-97年度から「新世代のための月間」)と定め、会員は"Every Rotarian an example to youth.(各ロータリアンは青少年の模範)"という標語を尊重して行動するように促している。
 国際青少年交換は、1927年にフランスのニースRCが初めて提案した。こうした気運を受けて、'39年に米国カリフォルニアの地区とラテンアメリカの数地区との間で交換が始まり、それが'58年には米国東部にも広がった。こうしてRI理事会は1972年に青少年交換を国際ロータリーの公式プログラムに決定した。
 1961年1月、九州の第373地区のクラブが、豪州の第280地区のクラブヘ第1号の交換学生を派遣した。これが日本での最初の青少年交換プログラムとなった。
 当2650地区(当時は第365地区)では1970-'71年度に地区委員会が組織され、青少年交換プログラムに参加した。'71年8月に実現した最初の交換は2名で、京都RCが男子高校生を米国ミシガン州の第629地区グランド・ラビットRCへ派遣し、同クラブから男子学生を迎えた。受け入れ高校は京都西高校である。もう一組は、彦根RCから男子生徒を同地区のグリーンビルRCへ派遣し、受け入れは同クラブからの女子生徒で、高校は近江兄弟社高校だった。
 当地区の交換計画は、交換学生数では、'70年代当初には年間1、2名であったのが'75年以降には4-7名となり、'80年代には10名に、'87年からは20名に、そして'90年代に入ると年間30名を超える規模に成長してきた。このプログラムを実行した当地区のクラブはすでに7割を超えている。30年間にわたる交換学生の当地区での実績は、派遣学生459名、受入学生410名、交換を実施した国は14カ国にのぼる('99年11月現在)。
 ロータリー青少年指導者養成プログラム(RYLA)の初めは、1949年に米国で始まった青少年指導者キャンプだとされる。この取り組みが徐々に広がり、'71年にはRI公認のプログラムとなった。これは次世代を担う若者にむけての活動で、地区内の若者とロータリアンが集い、指導者キャンプ、ロータリー学生会議、ロータリアンを交えての討論会、参加者による討論会などで構成される。
 当2650地区ではRYLAへの取り組みは遅く、1980年11月に第1回のセミナーを開いて始まった。以後は毎年開かれて、'92年からは地区RYLA委員会が運営にあたっている。

インターアクト・クラブの結成

 1962年にRIはインターアクト・クラブ(略称 IAC)の計画を発表した。これは各ロータリー・クラブがスポンサーとなって、地域の青少年のクラブを結成しようというものだった。日本における対象は各高校の生徒である。
 インターアクトの目標として次の8項目が提示されている。
  第1 建設的指導力および高潔な品性を認めそれを発展させる
  第2 他人に対する思いやりと助力を奨励しかつそれを実行する
  第3 家庭と家族の重要性をよく認識せしめる
  第4 各個人の価値を認識しそれに基づいて他人の権利を尊重する念を育成する
  第5 個人的成功、社会改善の基礎として個人の責任を認めることを強調する
  第6 社会に奉仕する機会としてすべて有用な職業の尊厳と価値とを認める
  第7 地域社会や国内および世界情勢について一層の知識を得る機会を提供する
  第8 全世界の人々に対する友情と国際理解の増進を目指す個人および団体のために活動の道を開く
 このような目標と理念のもと、各クラブはIAC設立に向かったが、青少年は学校に通学しており、学校とのチャンネルを開いたうえでなければ、クラブの結成は難しく、上記の理念を達成すべくもなかった。そして、生徒は2、3年で卒業し、メンバーが大幅に変わってゆくのだった。
 しかし、ロータリーの考えに理解を示す学校関係者もあり、徐々に道は開かれ、クラブが結成されていった。世界最初のIACは米国フロリダ州メルボルンのRCによって設立された。日本では1963年6月に仙台で発足し、その翌日、6月28日に当365地区でも京都西RCによって京都市立西京商業高等学校に18名の会員で設立された。以後、'66年12月に橿原に(会員17名)、'68年3月に奈良(会員34名)にと設立されるが、設立されても活動的な会員が卒業すると、充実させる間も無く停滞し、解散するクラブもあり、なかなか拡大にまではいたらない。
 1970年段階での日本におけるインターアクトの成立クラブ数が231クラブ、6419名の会員がいる当地区のIAC設立数はまことに少ない。ちなみに、'80年段階での当第2650地区のIACは5クラブであり、会員は138名に留まっている。また、'97年における状況は14クラブ、会員は336名である。

ローターアクト・クラブの成立

 '60年代の初頭にインターアクト・クラブ設立の提唱で一定の成果をあげたRI理事会は、1968年1月にローターアクト・クラブ(略称 RAC)設立を提唱した。これは18歳から30歳までの青年男女に、クラブによって責任能力を持つ市民の資質と、指導者としての能力を助長しよう、という意図で作られた。これには、インターアクトを卒業した若者もメンバーとして予定されていた。
 このRACも最初は米国で結成されたが、日本では1968年6月に川越で結成され、当365地区では9月に京都西RCによって京都外国語大学に、10月に京都RCにより京都TACが、勝山RCにより勝山RACが設立された。
 ローターアクト・クラブは、対象年令層が広く、青少年というより、ロータリーの年少の身近な仲間として接しやすく、指導しやすい側面をもつためか、当地区では持続的にクラブ数が拡大し、充実していった。
 ローターアクト・クラブでは「奉仕を通しての友情(Fellowship through service)」という標語のもとに、次のような方針を含んでいる。
 ・個人の成功と地域社会との関わりあいの基礎となる、個人の責任の重要性を強調する。
 ・社会に奉仕し、国際理解を増進する活動を行なう。
そして、具体的な活動からリーダーシップを育成し、国際理解を高めようというのであった。
 1982年4月に山科RCがスポンサー・クラブとなって、第265地区24番目のクラブとして、20名のチャーターメンバーで設立された山科RACの活動の概略を示し(設立から10年間)、ローターアクト・クラブ活動の実際を次に示そう。これはロータリー・クラブのローターアクト委員会が親身に世話しロータリーとの交流を図りながら、若者を指導するものだ。本来のローターアクトの例会や大会のほかに、 こうした活動が各年度を通じて行なわれ、次世代をになう若者にロータリーの精神とクラブ活動の何たるかを伝え、地道にリーダーシップ養成がなされているのである。
 当第2650地区でのRACの変遷の概略は次のようである。
 1968年に当地区最初のローターアクトが結成されてから、'60年代では3、'70年代に入ってからは19、'80年代では9、'90年代の'97年までに4という増加であり、現在34クラブ、684名が会員となっている。

職業奉仕の展開

 職業奉仕はロータリーの根幹をなす理念である。標語、道徳律(Code of ethics)、決議23-34号、綱領の諸項目などがロータリーのサービス(奉仕)を定め、ロータリアンはそれを活動に具体化してきた。
 戦後は、いち早く冊子『奉仕こそ我がつとめ』が出され、「四つのテスト」も加わって、ロータリアンの身の侍し方と職業奉仕が分かちがたく結び付いた。
 職業奉仕は難解だといわれ、各クラブで様々に議論されてきた。自らの良心、仕事に対する誠実、仕事と生活から導かれる倫理、などが組み合わさり、実際にどう行動するかが問われた。行動から奉仕の一般性へと精神化されるプロセスが繰り返しなされ、奉仕を行動に生かす努力がなされてきた。各クラブの職業奉仕の報告も、自らの職業上の人間関係の改善から、奉仕(サービス)の抽象的な議論まで、種々の内容を含むが、しかし、行動に奉仕を具現化しようとするプロセスそのものが、奉仕の理念を明確にすることでもあり、ここに奉仕が多様に展開される契機が用意されていた。
 1950年にRIは"Sevice above self"と"He profits most who serves best"を標語と認定、'55年に道徳律の頒布を中止し、現在では"Service above self"を第1標語にするなど、奉仕(サービス)の明確化と具体化をはかるが、日本のロータリアンは、歴史的に蓄積されて形づくられたサービスを基本に、"He profits most who serves best"も"Sevice above self"と優劣をつけずに扱い、道徳律も参照すべき文書として重要視している。
 '70年代に日本のロータリアンはサービス(奉仕)の重要性を改めて感じ取る。オイルショックに示されたように、そこで行動する人々の切り結び方の是非に関わる事態が、これまでとは格段の具体性をもって立ち現われていたのだ。当2650地区(当時は第365地区)の職業奉仕委員会では塚本義隆PGの講演『サービス思想の意味するもの』('72年)を出し、『社会問題に挑むロータリー』('74年)を出すが、これは「インフレ(買占め・売惜しみ・便乗値上げなど)、公害・消費者問題に対しロータリアンはいかに考え、行動すべきか」という地区内クラブへのアンケートの結果報告で、サービスが社会にどのような関わりを持ちうるかが点検・検討されていた。

社会奉仕の実践

 社会奉仕はロータリー活動の重要部分を占めている。当初から殊のほか力が入れられ、一時は奉仕競争になりかねぬ熱気で、それもあって、決議23-34号が出され、奉仕の原則が定まったのだった。
 災害時の救援物資や資金の提供、屑篭の寄贈、緑化運動、養護施設訪問など、その種類の多さは枚挙しきれない。
 日常の事柄に着目した表彰も行なわれた。1957年に京都RCが提唱し他クラブも加わった「新聞少年へクリスマス・プレゼント」活動は、ちょっとした事柄に着目した奉仕の典型で、10年を越えて続いた。また、福井県のRCが始めた高校での就職面接相談も、実用性の高い社会奉仕的な側面を持つ職業奉仕として現在も毎年行なわれている。
 また、ロータリーの広報的な側面を持たせたデパートでの「ロータリー展」なども行なわれ、市民にロータリーの何たるかを知らせる活動もなされている('62年2月、京都の5RC)。
 現在のロータリーでは、世界社会奉仕がダイナミックに展開され、活動の主要部分のように思われがちであるが、社会奉仕は国内における重要な活動である。社会奉仕活動は、募金活動に流れがちな国際奉仕に比して、より具体的で参加・実践的な側面を持ち、奉仕活動の中核を担っている。
 また、この社会奉仕は、より個人のレベルでなされる職業奉仕とも結び付いている。会員本人の、また「四つのテスト」による一般市民との交流、仕事における顕彰など、組み合わさって活動が成立しているのである。
 これは社会奉仕のみに限られてはいないが、奉仕活動を励まし顕彰すべく1967-68年度に作られたのが「意義ある業績賞」だった。これはRIが表彰するもので、地区内での奉仕活動のうち、際だっており、会員が参加しうる点に着目して選定された。当2650地区(当時は第365地区)では、'68年に奈良RCが「勤労スポーツ青年団の結成」で地区最初の表彰を受けた。この表彰は'73年に一度廃止され、地区ガバナー特別表彰となるが、'76年から改めてガバナーの選定による表彰として復活し、毎年の地区大会で表彰される習わしとなっている。
 受賞した奉仕活動は、会員自ら時間と労力を使ってのものが大勢を占める。もっとも、社会奉仕そのものが広い分野を覆うため、表彰の対象となる事柄も様々な分野の多岐にわたる活動の成果となった。

大阪万博とロータリー

 1966年11月、現在の第2650地区が含まれる第365地区で万国博ロータリー組織委員会が組織された。'70年に大阪北部の千里丘陵で開かれる万国博覧会はスエズ以東で最初の万国博覧会であり、'64年10月に開かれた東京オリンピックに匹敵する国家的な催しとなることが予定されていた。
 東京オリンピックでは東京地域のロータリーは社会奉仕としてオリンピックに参加することが企画され、主会場の代々木競技場に聖火台を寄贈し、期間中には都内で「友情の部屋」という通訳常駐の案内センターを開設した。こうした経緯があり、西日本で開かれる大阪万博でも、ロータリー活動として何らかの形で参加しようというのであった。
 まず、万博会場で毎週、例会を開会することが全日本のロータリーで決定された。具体的な企画は大阪のロータリーを中心に進められ、会場内にバラを13,500本植え込んだ「平和のバラ園」を造り、そこに会場を開設、全国や世界中から入場するロータリアンに憩いの場と情報センター、そして例会を提供しようということになった。
 1970-'71年度から第365地区は和歌山と大阪が分離し、福井、滋賀、奈良、京都の各府県に所在する37クラブ(会員2,111名)が第365地区を引き継いだ。このため、大阪万博は一見すると当地区とは縁遠く思われるが、資金の4,000万円の募金や企画と施工の段階では同一地区内の活動で、当時は現2650地区のメンバーも協力して準備を行なった。そして、万博開催の'70年3月には、京都市内の16クラブと宇治クラブが地域内13カ所にルート案内の道路標識を寄贈して、大阪千里の万博会場への交通の便に供している。
 '70年3月から9月までの6カ月間の万博会期中には、地区内のクラブはこぞって例会を会場内の「平和のバラ園」で開いて協力し、万博での会場例会は連日開かれて、8月にはRI会長W・E・ウォークも姿を見せ、結果は参加関係者23,300名となって、計画は成功裡に終った。なお、会場跡地は整備し直されて万博公園として開場し、そこにはロータリーが提供した「ロータリーの森」も造成され('72年)、現在ではすでに欝蒼とした森に成長している。

国際交流の成果と問題

 国際奉仕は戦後早くから、奉仕の一環として行なわれてきた。「ロータリー財団」の項で述べたように、学位取得を目的とするロータリー財団奨学生にも国際親善を期待した。財団奨学生の基準は後に、大学学部学生や語学研修・文化交流へも門戸が開かれて拡充した。
 また、1965年からは、グループ研究交換(GSE)という制度が設けられ、国際間におけるクラブ同士の交流を図るべく地区が主導してのクラブ単位の交流がはじまった。参加者は、派遣地区内で研修を積みながら現地との交流を図るもので、それは、 という枠組みで始められた。当地区はさっそく'66-'67年度に米国の第252地区と交換した。
 当地区がリーダーを出した交換は、'71-'72年度に行なわれた第640地区(米国ミシガン州デトロイトとカナダ・オンタリオ州ウインザーを中心とする地区)とのものが最初である。640地区のチームは3月末に来日し、地区内の各府県を1週間ごとに移動しながら研修を積み、交流して帰国した。当地区からは京都西RCの三浦総一郎がリーダーとなって、総勢6名が1973年5月に第640地区に派遣され、7月に成果を携えて帰国した。このGSEは社会の職業人が対象で、ロータリアンが補助する国際交流として、満足度の高いプログラムとして持続的な活動が続いている。
 より年少の青少年に向けての国際交流が、青少年交換プロジェクトである。これは日本では高等学校生生徒を対象にした交流計画で、これも序々に軌道にのって成果を挙げている。
 ところで、国際交流においては、日常生活を共にしながらの活動となり、派遣者はもちろん、受け入れ側にも大きな物理的・精神的な負担がかかる。このことについては、当初から語られてはいたが、問題が蓄積されて初めて、解決すべき問題として議論され始めた。『ロータリーの友』1991年正月号に国際交流の問題が特集され、改めて国際交流における問題がクローズアップされた。ここでは、この特集を要約しておく。
 普通の生活をしていて起こる事柄は、交換留学生や研修に訪れたメンバー見においても起こるのは当然のことであり、それにどう対処し解決するのかという方策無しには、受け入れ家庭への負担が増すばかりとなる。
 受け入れの家庭は善意で滞在を引き受けており、物理的負担はもとより、不十分な会話、生活文化・習慣の違いから来る精神的なストレス等々から、受け入れに熱心な家庭で往々にして、問題を抱え込んでいる。特に、習慣の違いは派遣が長期にわたることで、その差が判然とし、互いに理解しがたい事態に至ることもまま起こり、当初の計画が不十分なまま期間が終るという事態もおこっている。
 これらの活動は、互いの地区で交換し合うというシステムであるから、こちらが派遣したメンバーにも、多かれ少なかれ同様なことが発生しており、この問題をどう理解し解決してゆくかは、交流の成果が見えているだけに、見過ごせない問題である。

道徳律の消滅と職業宣言

 日本のロータリアンは、日常の経済生活の背後に何らかの精神的基盤を求めているといわれる。それがロータリー綱領、1915年制定の道徳律(Code of ethics)や決議23-34号などに文章化されていることに誇りを持ち、活動や生活の支えともなり、文書を考究することで自らを高めてきた。
 ロータリーは戦後、少しづつ活動の分野を広げてきた。奉仕活動におけるボランティアの部分を拡大し推進した。その過程で、現代に適応すべくRIは基本文書を点検し、1955年には、道徳律の世界における有用性に意見の一致を欠く、との判断でこの文書の頒布を中止し、ロータリー綱領に重きを置くこととした。ところが、会員の多くからロータリアンの心得として適当だとして、復活を望む声がひろがり、'77年の規定審議会で再び『手続要覧』に掲載されることとなったのだった。翌年の規定審議会で字句を現代に適応させるべく検討に入ったが、変更がなされぬまま、'83年の『要覧』からまたもやこの文書は姿を消した。
 こうした文書の再検討と改訂の試みは、次項の「決議23-34号の存続」でも明らかなように、ロータリーの活動の現代化の流れの中で起こった。その背景になったのは、厖大な数となった会員、豊富な資金による国際面における活発な活動である。そこにRIは一つの道筋を見いだし、より現実的な対応の組織が望まれたのだ。そこには、これまで語られてきた理念や精神とともに、活動主体の指向が表れていた。この考え方は戦後のロータリーに顕著になり、'70年代後半から大きな流れとなっていた。
 このことを問題にしているのは、おおよそ日本だけだという。日本のロータリアンの、いわゆる理論派は、この流れに向かって、歴史性と精神性を説いてロータリーでの内面活動の重要性を語り、ロータリーが本来そなえていた経済生活と精神との調和の問題を提示している。関西では1972年に関西ロータリー研究会が催され、ロータリーの理論的側面の研究と討論が持続的に行なわれ、このたびの基本文書に関わる問題にもメンバーは積極的に発言している。
 しかし、この理論面における整序性は、活動の活発化でもたらされる現実と微妙に食い違い始めており、検討、修正の時期を迎えていることも事実のようである。
 1989年に規定審議会は「ロータリアンの職業宣言」と題する文書を採択した。これは会員各自の事業職業生活において守るべき規範として定められたもので、ロータリーの新しい基本文書であり、現在は『手続要覧』の第5章「職業奉仕」の冒頭に掲げられている。それは次の8項目からなる。

  事業または専門職務に携わるロータリアンとして私は以下
  の要請に応えんとするものである。

  1. 職業は奉仕の一つの機会なりと心に銘ぜよ。
  2. 職業の倫理的規範、国の法律、地域社会の道徳的基準に対し、名実ともに忠実であれ。
  3. 職業の品位を保ち、自ら選んだ職業において、最高度の倫理的基準を推進すべく全力を尽くせ。
  4. 雇主、従業員、同僚、同業者、顧客、公衆、その他事業または専門職務上関係をもつすべての人々に対し、ひとしく公正なるべし。
  5. 社会に有用なすべての業務に対し、当然それに伴う名誉と敬意を表すべきことを知れ。
  6. 自己の職業上の手腕を捧げて、青少年に機会を開き、他人からの、格別の要請にも応え、地域社会の生活の質を高めよ。
  7. 広告に際し、また自己の事業または専門職務に関して、これを世に問うに当たっては、正直専一なるべし。
  8. 事業または専門職務上の関係において、普通には得られない便宜ないし特典を、同僚ロータリアンに求めず、また与うるなかれ。
 この新しい基本文書がこの先どのような経過をたどるか、まだ判然としない。しかし、新しい文章は平易・明確・具体的で、その分だけ精神性は背後に退いており、それに肉付けするのは、これから積み重ねられる歴史に依ってであろうか。

決議23-34号の存続

 1984年版の『手続要覧』から「決議23-34号」と呼びならわされる文書が消えていたことから、日本のロータリアンの間で議論となった。
 この「決議23-34号」は『要覧』社会奉仕の章、冒頭に掲げられ、ロータリーの奉仕とその哲学を詳しく記述した重要文書であるとの認識がこれまでなされていた。その文書がどのような理由で削除されたのか。この文書廃止の理由書には、大略つぎのようなことが示されていた。
  1. 現在のロータリー組織の実情にそぐわず、述べられているロータリーの人生哲学も、今日では受け入れ難くなった。
  2. 奉仕活動への規制の側面が強く、それにより、ロータリーは社会奉仕の面で遅れをとっている。
 「決議23-34号」は、1915年に出来た道徳律とともに、「ロータリーの哲学」を語るものとして理解されていたから、みなが驚いたのも無理はなかった。そして、『要覧』からの削除も唐突になされたという印象だった。事実、理事会決定の通知以前に『要覧』は配付されていた。
 いくつもの厳しい問い合わせや反対意見がRIに寄せられ、RIの説明は二転三転し、結局、文献の書き直しを行ない、その文章を規定審議会に提案することとなり、決議86-203の提案文として公表された。内容は決議23-34号とほぼ同じものだったが、決議23-34号の冒頭にあるロータリーの人生哲学がはぶかれていた。そして、RIの立場や、クラブの自主性についての記述が曖昧で、これまでのRIの不明確な説明とも相まって、議論は再び活発になった。
 この間、関西ロータリー研究会から末積正『決議12-34はロータリーのキイ・ポイントである』や、川崎北RCのパストガバナー津田進によって『決議23-34の行方』などが出され、ロータリーの理論派ばかりでなく、論議が会員に広くゆきわたる。
 日本での議論は、提案文における不備の指摘にくわえ、決議23-34号のもつ歴史性の重要さと、そこに込められた先輩がなした積み重ねの成果の確認、そして「哲学」が強調されていた。この議論は日本でとくに波紋が広がり、RIにとっては意外な展開であったようで、結局、'85年2月に行なわれた規定審議会では、当2650地区の増田房二ガバナーの報告のように、「多少まだ字句に問題があるとかいうようなことで、提案者であるRIの理事会自体がこれを取り下げました。……従来の決議23-34号は依然として有効である」という結末となった(地区大会 規定審議会報告)。
 この議論はさまざまな波紋を広げた。日本ではこの文献の示す、奉仕とロータリーの哲学、につよく惹かれる会員が多く、この文献の哲学部分の削除には同意できなかった。そして、より現実的には、3-Hプログラムからポリオ・プラスへとボランティアに大きく展開するRIの方向に懸念をいだき、ロータリーはボランティアのみの団体ではない、という議論を展開した。

世界社会奉仕と3-Hプログラム

 1963年6月にRIは世界社会奉仕(WCS)委員会の企画を発表した。クラブまたは地区が他の国のクラブを通じて援助をなそう、というプログラムである。援助を必要とするクラブの情報はRIが一覧表で提供、RIは各クラブ(地区)が毎年新しいWCSを引き受けるよう呼びかけた。
 このプログラムが当2650地区で実際に動きだしたのは'67年だった。アジア救ライ協会を通じて、インドのアグラへ500万円を寄付したのが最初である。以後、アジアを中心に各地の災害、難民、弱者への救済・援助の物資や資金を提供してきた。このプログラムは、それまで散発的な面のある国際奉仕を、効率的に運用しようと図ったもので、一定の成果を上げた。
 ロータリーは3-Hプログラムを1978年5月の東京国際大会で発表した。3つのHとは、Health, Hunger and Humanity 、健康・飢餓追放・人間性尊重のプログラム計画である。RI理事会からの呼びかけは次のようなものだった。
国際ロータリーの保健、飢餓追放、人間性尊重プログラムの目的は、国際理解、親善、および平和を増進する手段として、すべての人々の健康を増進させ、飢餓の苦しみを緩和させ、かつ、人間らしい発展と社会的な発展とを促進させようとするものである。
この目的を達成させるために、各ロータリー・クラブと個々のロータリアンは、次の分野における諸事業に取り組み、人々への思いやりの精神を実証するように奨励する
  1. 保健事業
  2. 飢餓追放事業
  3. 人間性尊重の事業
 これは、翌'79年の国際児童年に関連させながら、主に世界の児童の困難に手を差し伸べようとするプロジェクトで、ロータリー創立75周年記念の事業としての面もあった。
 これに即応するかのように、当地区の奈良県のロータリークラブが連合してインド・カルカッタのガンジス河大水害罹災民への中古衣料品の贈呈をおこなった('79年)。当2650地区では、香港のベトナム難民収容所への衣料品の提供('82年)、タイのインドシナ難民への毛布の提供('83年)などが行なわれた。これらは担当者やガバナーが現地へ出向いての活動だった。
 そして、'86年にはインド・アイキャンプと呼ばれる、医師と看護婦を同道しての白内障治療の医療活動をブッダガヤの現地で行なった。これは地区の会員が費用を分担して半分をまかない、RIからの拠出とあわせて1,000万円の予算で行なわれて過去最大のWCS事業となり、世界中のロータリアンに知れ渡った。
 3-HプログラムでRIが力を注いだのが、伝染病の免疫処置を世界的な規模で実施するものだった。このための特別基金が'79年に設定された。基金は世界のロータリアンから募り、'80年1月末までに367万ドル集まって、日本からはその1/4が拠出された。当265地区においては、各クラブで3-H基金を募集し、'80年6月末で地区全体として74,572ドルを寄金した。このプログラムにおいてのバナー・クラブ59、プラーク・クラブ8、会員1人当たり15ドルの達成率130%という結果となった。
 この資金をつかって、フイリッピンで事業が開始された。まず破傷風ワクチンがほどこされ、つづけて5年計画で年令3カ月から36カ月の児童にポリオ・ワクチンの投与がなされ、最終的には600万人への予防接種・注射が実施された。人口が大規模ではあるが、多くの島嶼からなる比較的孤立した地域であるフィリピンで大きな成果を上げたのだった。
 当2650地区のWCS事業はその後も続けられ、パキスタン('89)、マレーシア('90)、パプアニューギニア('91)、バングラデシュ('92)、ネパール('93 '94)、フィリピン('96)、ネパール('97)、ラオス('98)、ベトナム('99)と、現地のロータリーとの関係を緊密に取りながら進められている。

子供を病気から守る ポリオ・プラス

 1980年代に入るとRIは、クラブ創立100周年にあたる2005年を記念する行事を考えていた。
 国際的組織であるロータリーにふさわしい活動はなにか。3-Hプログラムのフィリピンにおけるポリオ・ワクチン投与の経験から考えられたのが、世界からポリオを撲滅できないか、というアイディアだった。polioは急性灰白髄炎(きゅうせいかいはくずいえん)と称される病気で、一般に小児麻痺と呼ばれ、世界で未だに猛威をふるっている。
 ポリオに特効のあるワクチンは戦後に開発され、これでポリオを絶滅した地域もあり、投与しやすい経口生ワクチンも開発されている。しかし世界を見渡せば、まだ猛威をふるっている。
 ポリオは子供が罹りやすく、子供の成長と将来に関心をよせるロータリーにとっては、この点も考慮されてのことである。この壮大な計画は、はしか、ジフテリア、百日咳、破傷風、結核の5つの病気用ワクチンも加えたポリオ・プラスとなって発表される。
 ポリオ・プラス計画がRIから発表されたのが1985-'86年度で、会員がこの行動に立ち上がり、ロータリーの発足100周年である2005年までに撲滅計画を成就しようというものだった。
 ポリオ・プラスが正式に発足したのは1986年度からで、資金集めとして目標を1億2000万ドルと定めて募金が開始された。ところが1人当たりの募金額が高額なこと、期間が長期にわたることもあって出足がにぶく、改めて、ポリオ禍の現状や計画の目的、重要性が説かれ、計画が周知徹底された。計画は軌道にのった。
 日本は募金総額の20%強、約40億円を分担することになり、この半分を会員が拠出し、残りは財界その他から募る、というものだった。キャンペーンの理念は幸いにロータリアンに理解されてゆき、'87年以降は急速に資金が集まるようになる。当第2650地区では1989年7月段階で2億4,000万円という、予定を大幅に超える額が集まった。これは全国で2番目の成績だった。
 この募金は、最終で世界中から2億4,000万ドルを超えて集まり、計画した倍以上という成果となって当初予定された募金活動は'91年6月に終了する。この基金をもとに、ロータリーはワクチンを調達しポリオ撲滅にのりだす。
 ロータリーは保健医療機関ではない。ワクチンの具体的な接種活動は、国際的な医療専門機関との連携・協力の下に行なうことが前提だった。ロータリーは、協力関係にある国連の組織WHO(世界保健機構)やUNESCO(国連教育科学文化機関)との協調・協力の下に行動を起こした。これらの機関もロータリーの意図を理解し共に行動した。
 当2650地区の募金活動は、他を圧倒する成果を示しているが、それは、ロータリー財団にプールされる地区独自の奉仕活動に利用できる資金を確保したことにもなる。この点を利用して、'90年代後半にさしかかる時期から、当2650地区は、ポリオ・プラス事業に積極的にかかわってゆく。1994年2月にRIから要請を受けて検討の結果、カンボジアでのワクチン投与に参加することになった。ワクチン費用の1/4、10万ドルを当地区が負担し、現地に赴き、160万人におよぶカンボジアの子供に投与する実践活動である。
 これは従来の地区単位で行なわれる事業とは異なり、RIを仲介として、WHO(世界保健機関)の活動に参加し、対象国政府とも関係しながらなされるもので、かつてない取り組みとなった。カンボジア政府の支援要請が地区ガバナー事務所にもたらされ、WHOと資金提供の協定が行なわれ、具体的に動きだす。
 ワクチンの投与は一斉に行なわれる必要があり、カンボジアでは'95年2月に実施された。当地区では二橋貞雄ガバナーを団長とする26名の派遣団を組み現地に出かけ、2月11日、カンボジア全土8,500カ所で5歳以下の子供170万人へ一斉にワクチンが投与された。派遣された団員の大多数が投与に参加し、ポリオ撲滅活動の実際を体験した。この活動は、地区の新しい世界社会奉仕の方向を探り当て、今後の奉仕活動の一つの方式を示したと評価された。
 翌年度にも、この活動は継続され、ロータリーが誕生して1年足らずのモンゴルにおいて行なわれた。前回と同様の費用援助をなしながら、坂部慶夫ガバナーが団長となって、公募に応じた27名が参加し、'96年5月にモンゴルの首都ウランバートルに赴いて、子供たちにワクチンの投与がなされた。このときの投与は第3次のもので、当地ではポリオの発生は無く、撲滅の完全を期した投与であった。
 翌1996-'97年度にはネパールでの投与が行なわれた。足高晋ガバナーの急逝で、急遽、ふたたびガバナーとなる中野重宏PGを団長とする一行が現地に入り、子供330万人を対象に一斉投与が行なわれた。
 '98年も場所はラオスに移ったが、これまで通りの活動で、山田三郎ガバナーが派遣団を結成して現地に入り、成功裡に投与がなされた。この年度で特徴的なのは、ワクチン投与の活動と並行的に、ラオスで別の奉仕活動を行なったことだった。現地にまえもって小学校を建設し、それを寄贈したのだった。このポリオと地区WCS活動の組み合わせは翌'99年のベトナムでも宮崎茂和ガバナーを団長として行なわれた。そして2000年には中国西南部、ミャンマー国境地域でのワクチン投与に大日向弘明ガバナーを団長として地区のメンバーが参加したのだった。
 このようなRI、WHO、現地政府等と地区が組んだポリオ・プラス撲滅活動に対して、世界社会奉仕と外れるとの議論もあるが、奉仕の範囲と視野を広げた側面もあり、奉仕の在り方を考える機会も提供したのだった。
 なお、WHOは2000年10月に西太平洋地域でのポリオ撲滅の会議を京都で予定し、当地区もそれに協力している。

女性会員問題

 1978年に米国カリフォルニア州のデュアーテRCが女性会員を加入させ、RIがデュアーテRCを除名した。これが裁判に持ち込まれRIは被告となった。この争いは10年がかりで米国最高裁まで持ち上がり、1987年5月にRIは裁判に敗れ、女性の入会を認めないのは不当だとの結論を得たのだった。RIはこれを受けて5月28日、米国において女性会員の入会を認めることとなった。翌'88年にはカナダでも認めた。
 ロータリーへの女性の入会問題は以前から話題になっており、RIは女性の入会を認める方向でロータリーの立法機関である規定審議会に提起していたが、国際的な状況は、それが平等に反するとは考えられておらず、その都度否決されていたのだった。1970年に日本で発行された『ロータリー問答』(『ロータリーの友』編)には、女性の入会について次のようにある。女性の入会については、定款第4条「ロータリークラブは次に定められた資格を有する男子よりなり……」の部分を引き、入会できない旨を述べ、「さりとてロータリーは決して女性を排斥しているわけでも何でもないのでありまして、ロータリーでは時々家族会議を開いて夫人同伴で会員および家族間の親睦を深めるようにしている……」と説明する。そして、歴史的に男子のクラブとして成立し続いてきた、と述べるに留まっている。日本においては、これ以上の議論は深くはなされずに来た。
 しかし、米国の平等の思想はより先を進んでおり、現代の女性入会問題は、この説明で解決することではなく、フェミニズム運動の高まりの下で、平等の観念にもとづく機会均等の原則に照らしての是非が問われていたのだ。
 この判決によって、米国ではこの問題に関してRIや各クラブの裁量権は無いことを判決は法的に確定した。
 こうした米国での女性入会問題の流れを受けて、1989年1月のシンガポールで開かれた規定審議会で、入会規定から「男性」の字句をはずし、女性の入会に関して各クラブの判断に委ねることとした。
 '87年のRIによる決定は、女性入会の条項が米国内(翌年にはカナダでも)にのみ有効であるとしたところに、ロータリーの国際的な事情が表れている。
 もともと、ロータリーの定款(規約)は米国の事情を背景に整備されてきており、それを各国のロータリー・クラブが受け入れてきた。しかし今回の事態は、米国の事情によって簡単に規定を変更することは、RIとしてはできかねることであった。そこで、規定条項から人称代名詞「男子」の字句をはずして、女性の入会を可能にし、その入会の諾否は各クラブの判断に任せる、という現実的な解決を図ったものである。各国では女性の地位に関する事情が異なり、一律な規定では問題が錯綜しかねない事情を考慮した施策だった。
 女性入会の問題は日本でも議論され、現在では女性を入会させたクラブもあるが、日本での大勢は漸進的な変革にある。当2650地区においても同様であるが、1992-93年度で女性入会者8名を出し、年ごとに少しづつ増えて、'99年6月段階では27名が入会している。

地区の運営

 福井・滋賀・奈良・京都の各府県を地域とする第2650地区は、ここ30年ほど地区を分割せずに活動をつづけている。
 大阪や和歌山と分かれて第365地区をひきついだ1970年、クラブ数39、会員数2,283名で始まった地区の歴史は、10年後の'80年に60クラブ、4,090名の会員となった。年ごとに2クラブ、会員数4-9%の伸びだった。この勢いは'80年代に入っても持続し、伸びはにぶるが、会員数は年にして3-4%を持続、'90年6月段階で79クラブ、5,882名の会員数である。'70年からの20年を通じて、第2650地区は日本有数の大地区に成長し、なお、'99年6月段階の会員数は6,425名、クラブ数は91である。元は同じ地区だった大阪や兵庫の地区がこの間に分割しているのに比して、当地区は一貫して大地区を維持し、それがこの30年間の際だった特徴である。
 クラブ数と会員が増えても、クラブ例会への意識が下がることはなかった。'70年代初頭に96%であった出席率は、'80年に98%、続く'90年代にもこの水準を維持している。'80年代なかばの他地区の出席率は90%前半が大多数で、当地区のように100%近くを維持するのはまったく稀有なことだった。
 大地区の効果はロータリー財団や米山奨学金の募金に端的に表れた。当2650地区の寄付合計は日本地域の最上位に位置することとなった。'90年には、財団に会員1人当たり107ドルの寄付、年間計61万5,366ドル、累計は577万444ドルにのぼった。米山奨学金では1人当たり2万円を超え、年間寄付額1億1,882万3,410円、累積で11億2,559万4,049円である。これは奨学金や奉仕活動用資金の当地区枠が多く確保されることを意味し、その成果は留学生受け入れ数や、国際派遣交流活動の数などに持続的に表れて、大地区の成果が示されている。
 大地区ゆえの問題も発生する。地区を統括するガバナーは前年度の大会で選出されるが、ガバナーノミニーとしてその前からスタッフを組んで事務所を開設し準備が開始されており、担当年度が終了しても、事務所は引継ぎ・報告書の取り纒めなどで、活動を持続し、ガバナーはパストガバナーとして活動を続けてゆく。このガバナーと事務所に負担がかかるのだ。
 ロータリーの活動が活発になるほど、事務所の作業量は増大し、事務所運転経費は上昇した。1970年の事務所には地区幹事6名、地区資金1名、地区会計1名、事務局2名であったものが、'95-96年度においては、地区委員の20名を含めスタッフは計28名に及んでいる。事務所予算も4,900万円で、これは'73-'74年度の705万円からするとどれほど増加したか知れよう。財政的にこれが適当かどうか、議論がなされている。
 クラブ数の増加はガバナー公式訪問の数を増し、ガバナーは地区内を駆け巡ることとなったし、地区内で行なわれる地区協議会やインターシティー・ミーティング等の諸会合も、ゾーン別にするなどの対応をしつつも、交流に親密度が減じて希薄になりがである。ガバナーはもちろんこれらの主要な会合に出席している。ちなみに、ガバナー事務所が関わった行事が'95-96年度では381件に上る。ガバナー補佐をとの議論もあったが、リーダーシップの点から検討されている。
 この地区の抱える問題が指摘され、解決策として第2650地区の分割は度々論議されたが、そのつど、当地区は地域的まとまりを選択して、現状維持で現在に至った。しかし、財政や運営から見て、はたして、第2650地区はこのままで良いかどうか、議論が続けられている。

阪神大震災と日本海重油流出事故

 1995年1月17日早朝、淡路島・阪神間にかけて直下型の大地震がおこった。マグニチュード7.2という、関東大震災に匹敵するものだった。
 真冬早朝の地震で規模が分からなかったが、夜が明けるにしたがい、高速道路が倒壊し、道路は寸断され、神戸の繁華街は壊滅しており、神戸から東にかけて街が消滅するほどの大災害なのが判明した。
 建物は大半が倒壊や半壊で、消火設備も破壊され、病院も機能を発揮できないほどの被害を受けていた。続けて大火災が発生し、消火設備の壊滅で火事は数日燃えつづけ、神戸の西部を中心に広大な焼け跡となり、都市のシステムは機能しなくなった。この大震災での死者は最終的には数千人におよび、被害総額は10兆円にものぼるという大災害だった。
 ロータリーは直ちに動きだす。当2650地区は、以前には神戸とも同じ地区に属し関係が深かったこともあって、すぐさま義援金を募集して、1月末に二橋貞雄ガバナー自身が災害現地をかかえる第2680地区事務所へ出向き2,400万円を手渡した。
 また、人道プログラムの同額補助金を活用しての2万ドルを申請、それと国際財団活動資金の2万ドル、財団への追加寄付によるシェア・システムで引き出せる2万ドル、合わせて6万ドルをロータリー財団から引き出し、第2680地区に送られた。また、各クラブから直接に現地のクラブに渡されたもの、公的機関を通じてなされたものなどを合わせると、この年度で最終的には1億5,430万563円の義援金が当地区からなされた。
 この思いもかけない大地震で、日本でのボランティア活動がクローズアップされることとなった。交通と通信が遮断されて孤立した被災地へ、全国からの救援が続々と湧き出てきた。まだ組織化されない無数の人たちが救援に向かい、震災直後の手当て、立ち直りに向けての助力など、様々なボランティア活動が行なわれた。このことで1995年を「日本のボランティア元年」と称されるほど、世の中の善意が行動で示された。
 ロータリーもまた、実際活動において同様に活動している。地区内の両丹の7クラブは、震災後ただちに被災地見舞と救援のため、各クラブから資金を調達し救援物資を現地に搬送した。ロータリアン個人で物資を送った人、炊き出しを行なった人、専門(医者、弁護士、土木業等々)を生かした奉仕活動、被災者の一時受け入れなど、多様な奉仕、ボランティア活動がなされた。
 ただし、ロータリアンの反省として、こうした災害時における具体的救援活動への備えを、地区・クラブとして心得ておく必要があるという点が、会員から指摘された。
 1997年1月7日、ロシアの重油タンカーが日本海で座礁・転覆、漂流という事故が発生した。壊れたタンカーと流れだした重油は荒れた日本海を東に、福井県や京都府の海岸に到達した。この事故は当地区内で起こった災害だった。
 このときも、当2650地区のガバナー事務所は義援金を募集、1,033万1,750円が集まった。当地区外からも約1,052万円寄せられ、合わせて2,000万円を超える義援金を福井県災害対策本部や京都府関係市町村に贈った。
 問題は漂着した重油の処理だった。粘りのある油が浜や海底に付着すれば、海産物はもとより、観光にも大きく影響する。この重油の手作業による除去作業にボランティアが活躍した。ロータリーでも、現地の三国RCを中心に現場での作業に邁進したのだった。
 この10年間に、日本での自然による大災害は'91年の雲仙普賢岳、阪神大震災などが起こった。そしてこの重油流出事故。ロータリーはそのつど救援のための資金を募って現地に贈り、クラブとして、また個人として救援に駆け付けた人も少なくない。こうした突然の災害において、ボランティアが活発に行動している。この活動で得られた成果と問題点を、ロータリーの奉仕活動の新たな広がりとして含み込むことが求められている。