第2章
日本におけるロータリーの普及
米山梅吉にとって、それは衝撃であった。
1917年10月、男爵目賀田種太郎を団長とする政府の財政調査団委員として訪米、翌1918年正月をテキサス州ダラスで迎えた米山は、1人の男との運命的な出会いをする。三井物産ダラス支店長の福島喜三次であった。福島は、ダラス・ロータリー・クラブに数カ月前から入会していて、米山にロータリー・クラブの理念を説き語った。米山の心を強く打ったのは、「利己のない奉仕(Service, not self)」というロータリーの標語であった。この出会いはまもなく東京ロータリー・クラブの設立を促させることになる。
米山は1868(明治元)年、東京芝田村町で生まれた。父は和田竹造といい高取藩士。母うたは三島神社宮司の娘であった。沼津中学校から江南学校に移り、一時、東京府吏員となったが、1886(明治19)年に東京英和学校(現青山学院)から東京銀座福音会英語学校に学んだ。米山藤三郎の養子となって1888(明治21)年、渡米。サンフランシスコ福音会寄宿舎にはいる。1893年、シカゴ市で開かれた世界博覧会では日本の出展品の説明にあたる。1894(明治26)年に帰国。8年間にわたる在米期間中にオハイオ州ウェスレアン大学、ニューヨーク州シラキュース大学などに学んだ。
1897(明治30)年、合名会社三井銀行に入社。重役となり、その後、三井信託会社を創設して社長となった。
米山の訪米は、そんなころであった。
当時、日本は第一次世界大戦に連合国に加わって参戦、国内では船舶、鉄鋼が好景気に沸いたが、戦争が終わるや反動で激しい恐慌を招き不安定な時代を迎えていた。
財政調査団の案内役を務めた福島は、1919年12月に帰国が内定していたが、ダラス・ロータリー・クラブの会長から日本でのクラブ設立を勧められ、福島も設立希望をもっていた。1919年10月にはダラス・ロータリー・クラブ、リチャード・メリウェザー会長から国際ロータリー・クラブ連合会(現国際ロータリー)に福島が日本にクラブ設立の希望をもっているという書簡を届けている。
福島は1919年12月にアメリカを発ち、翌年1月に帰国する。福島は2月28日に国際ロータリー・クラブ連合会から「特別代表」に任命され、6月末までに日本でのロータリー・クラブ結成を促した。福島はその権限を米山に一任するが、何しろ日本ではじめてのことだけに期限内には間に合わなかった。米山といえども、短期間にチャーター・メンバーを揃えるにはいたらなかった。仲間意識(fellowship)をもとに発展してきたロータリー。アメリカという多民族国家による社会から生まれたクラブ意識が日本で理解される土壌はなかった。
国際ロータリー・クラブ連合会のシカゴ本部は、パシフィックメイルスティームシップ会社横浜支店長のウイリアム・L・ジョーンストンを派遣して、福島とともに“共同代表”に任命、いち早い設立を促す一幕があった。
日本のロータリーが発足をみたのは、1920年10月20日であった。東京ロータリー・クラブであった。米山と福島の歴史的な会談が行なわれて3年目である。発足に先駆けて8月、銀行倶楽部での設立説明には、出席は18人だったが、9月1日の設立総会には24人が出席した。席上、初代会長には米山梅吉、幹事には福島喜三次が選出された。国際ロータリーから加盟承認をうけたのは翌'21年4月1日であった。登録番号855。ときの国際ロータリー会長はエスタス・スネディコール、幹事はチェスリー・ペリーである。
チャーター・メンバーは、深井英五、藤野正年、藤田譲、藤原俊雄、堀越善重郎、星一、井上敬治郎、磯村豊太郎、伊東米次郎、岩井重太郎、樺山愛輔、梶原仲治、岸敬治郎、北島亘、倉地誠夫、牧田環、長野宇平治、小野英次郎、佐野善作、清水釘吉、対馬健之助、和田豊治、米山梅吉、福島喜三次
…………
朝吹常吉、宮脇恒次郎、相馬半治、田原豊の4人は'21年7月の理事会でチャーター・メンバーに追加された。
チャーター・メンバーの資格選考は、厳格なものであった。ポール・ハリスがロータリー・クラブを発案したときにくらべて高踏的で、排他的とさえいわれるほどであった。とくに語学は重要視され、クラブの記録通信の一切は英文だったこともあった。
記念すべき日本最初のロータリー・クラブの誕生を見たが、まだ定款細則などには関心がうすく、例会開催は不定期で、出席の意味、目的もあいまいであった。国際ルールを無視した運営もあった。例会は月1回で、第2水曜日と決められていた。第2回例会は11月10日、第3回例会は翌年2月9日であった。出席率は上がらず案内状を出しても、50%を切ることがあった。こうした創設期の日本のロータリー・クラブにあって、米山梅木との初代会長としての信念は、使命感に支えられていた。自ら体得し、実践した奉仕の精神と、ロータリー精神との共通性を信じ、会員を頑な規則で縛るよりも、その理解を求めることを優先した。'20年10月から'22年3月まで東京ロータリー・クラブの会長を勤めた米山についで、会長を受け継いだのは弁護士の宮脇恒次郎であった。厳格なロータリアンであった宮脇をしても、週1回の例会を定着化することはできなかった。ただ例会の報告は月1回であったけれど、この月報は国際ロータリー連合会に東京ロータリー・クラブの活動を印象づけた。
東京ロータリー・クラブ設立に尽力した福島は、間もなく大阪に転勤する。1922年3月だった。福島は大阪で星野行則と会う。すでに1921年英米訪問実業団の一員として渡米し、シカゴの国際ロータリー連合会の事務局を訪れペロー幹事に面談。ロータリー活動についての教えをうけていて、東京についで大阪にもロータリー・クラブの設立委任を受けていたのである。福島は大阪でも星野とともに設立に加わった。1922年11月1日には中之島大阪ホテルで10人が集まって設立準備会を開き、17日には、25人のチャーター・メンバーで大阪ロータリー・クラブが設立され、翌'23年2月10日付けで承認された。東京につぐ日本で2番目のロータリー・クラブで、登録番号1349であった。
また'24年8月には神戸に、12月には名古屋にとロータリーは設立されてゆく。
定款細則の関心が薄く、出席率も心もとない東京ロータリー・クラブの会員にとって、ロータリー活動を認識させることになったのが、皮肉にも関東大震災であった。
1923年9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9、震源地は、相模湾西部沿岸。昼食時という時間帯もあって各地に火災が起こり、被害を一層大きくした。被害地は神奈川、東京、千葉県南部に及び、全壊全焼家屋は57万5,394戸、半壊家屋12万6,233戸、被災者総数34万4,898人、うち死者9万1,344人、行方不明1万3,275人を数えた。
被害の状況は全世界に伝わり、ただちに国際ロータリー連合会から大阪ロータリー・クラブ経由で東京ロータリー・クラブにガイ・カンデカー会長の見舞い電報とともに2万5,000ドルの義捐金が送られてきた。さらにシカゴ・ロータリー・クラブから1,500ドルのほかサンフランシスコ、ニューヨークのクラブをはじめ、世界17カ国、503クラブからも義捐金や救援物資が届けられ、義捐金総額は8万9,000ドルに及んだ。
被災地をはじめ日本政府を驚かせたのは、わずか60時間後に駐日大使シーラス・E・ウッズ氏の処置によって東洋にあった米艦隊が食糧救援物資を積んで横浜に着き、米政府も赤十字とともにフランク・R・マッコイ少将を派遣して救援活動にあたったことだった。ロータリアンはいうまでもなく、被災地の人々はロータリーへの関心を高めたのであった。
東京ロータリー・クラブは国際ロータリー連合会から送られた義捐金をもとに東京、横浜の被災小学校188校に備品を送り、殉職警官の遺族にも見舞い金を届けた。不幸な災害のなかで、ロータリー活動の意味と力を改めて認識させられるにつけて、東京ロータリー・クラブの会員は奉仕の喜びを身をもって体験した。11月の例会では米山梅吉は震災復興のために会員はこぞって努力を捧げ、さらなる会員間の協調と親睦をはかることを確認し、これまで月1回の例会を毎週水曜日に開催することを提案、ただちに実行に移された。
東京ロータリー・クラブはまた、東京孤児院内に1棟を新築して贈った。「ロータリー・ホーム」と名付けた建物の開館式が行なわれた1923年11月14日、会員の6割が家族を伴って出席した。これが日本のロータリー家族会のはじまりとなったのだった。
京都にロータリー・クラブが誕生したのは1925年10月。1921年4月、東京ロータリー・クラブが日本で最初のロータリー・クラブとして創設されたあと、大阪(1923年2月)、神戸(1924年8月)、名古屋(1924年12月)についで、5番目であった。登録番号は、2184である。
設立は京都商工会議所専務理事(のち会頭)で、生糸問屋の竹上藤次郎が友人たちに呼びかけて賛同を求めたのが発端であった。当時、日本のロータリー運動は東京、大阪のロータリー・クラブ創設を端緒にして各地から設立希望が起こり、京都も例外ではなかった。国際ロータリー(1922年、ロサンゼルス国際大会でロータリー・クラブ国際連合会を改称)は、まだ地区(District)制度がなかった日本の状況のなかで、こうした動きに対応する機関の必要性から1924年7月に東京ロータリー初代会長の米山梅吉をスペシャル・コミッショナーに任命。現在のロータリーの地区ガバナーのような職務を委嘱していた。
竹上は、京都ロータリー設立にあたって米山スペシャル・コミッショナーを訪ね、ロータリー運動の理念に触れると同時に、東京ロータリー・クラブの井坂、犬丸らとの会談を重ねて設立のための指導を受けた。
1925年7月22日、竹上は京都ホテルに広岡伊兵衛ら18人を集めて設立のための初の懇談会を開いた。座長をつとめた竹上はアメリカのロータリーの発祥の経緯、世界のロータリー活動の現状などを報告、満場一致で創設に賛成するなど、以下の申し合わせを行った。
▽例会は毎週1回、水曜日、午後0時半。
▽禁酒主義、時間厳守、出席を奨励し、欠席は予告する。
▽3人の委員の選出(委員長竹上藤次郎、後川文蔵、広岡伊兵衛)。
9月5日には第2回協議会を開き、9月19日の第3回の創立相談会で職業分類に伴う35人がチャーター会員となった。
京都ロータリー・クラブのチャーター・メンバーは次のとおりであった。
武田五一(建築学者)、竹上藤次郎(生糸業)、広岡伊兵衛(友禅染業)、藤本田蒔(広告業)、福田浅次郎(骨董品売買)、平井権七(ポンプ業)、平野吉兵衛(鋳金工)、堀野久造(酒造業)、池田有蔵(西陣織物販売)、稲垣恒吉(火災保険業)、井上武夫(ホテル経営)、伊谷市郎兵衛(西洋料理)、川上清(弁護士)、錦光山宗兵衛(陶磁器製造)、久保田庄左衛門(売薬業)、松尾喜七(鹿の子製造)、三上治三郎(漆器業)、森田三郎(倉庫業)、中西亀太郎(医学者)、大谷
塋韶(社会事業)、六鹿清次(取引所員)、沢渡源兵衛(悉皆業)、島津常三郎(学術機械製造)、下村正太郎(百貨店)、下郷伝平(農業)、塩見清(観光案内)、後川文蔵(新聞業)、武内義尚(商工組合事務)、田中博(電灯業)、田中利七(刺繍業)、戸田徳治(石炭業)、戸塚龍平(信託業)、津田幸二郎(電線製造)、渡辺郁二(西陣織物業)
初代会長には武田五一、副会長に竹上藤次郎、幹事に井上武夫が選出された。
10月17日に京都ホテルで開かれた発会式には、米山梅吉スペシャル・コミッショナーをはじめ、東京ロータリー・クラブ井坂孝会長、大阪ロータリー・クラブから村田省蔵前会長、名古屋から生駒重彦会長らが来賓として出席。京都の会員は紋付き羽織袴姿で一同を迎えた。
創立披露会が開かれたのは10月28日。シカゴ本部からのチャーターの伝達はなかったが、チャーター・ナイトを彷彿させる雰囲気で、会場となった京都ホテルには米山をはじめ東京、大阪、名古屋から会長、幹事や入洛中のハワイ・ロータリー・クラブのアン・クーパー氏ら20人が来賓として集まった。認証状の伝達式(チャーター・ナイト)は12月24日であった。
出席率は80%に近く、例会スピーチは、活発であった。
1905年、ポール・ハリスによって創設されたロータリー・クラブは、全米ばかりでなく世界的にも拡大され、1920年までの15年間に750クラブ(会員5万6,000人)を数え、以後1925年までの5年間に倍増の2,000クラブ(会員10万8,000人)が誕生した。こうした拡大のなかで日本に設立されたのが1920年の東京、1922年の大阪であった。ただ日本にはまだ地区(District)制度が取られておらず、国際ロータリーの直接の監督下に置かれていた。しかし神戸、名古屋、京都の各都市から設立の気運がおこるにつれて、国際ロータリーは、1924年7月からスペシャル・コミッショナーという職務を設けて対応することとし、初代コミッショナーに米山梅吉が委嘱される。
やがて神戸、名古屋、京都にロータリー・クラブが相次いで設立され、1926年5月、日本の全ロータリーを集めた第1回インターシティ・コンファレンス(連合懇親会)が15日、16日の2日間にわたって、大阪で開かれた。議題は、拡大しつつある日本のロータリー・クラブにあって、連合会を結成するかどうか、各地にロータリーを広めるか、さらにロータリー精神の広報についてであった。翌1927年10月には第2回日本インターシティ・コンファレンスが東京で開かれ、席上、はじめて地区制が議題としてあげられる。新地区設立に向けてシカゴ本部への積極的な働きかけをしたのは平生釟三郎であった。大阪ロータリー・クラブのチャーター・メンバーで初代の米山梅吉、2代目の井坂孝に継ぐ3代目のスペシャル・コミッショナーである。
平生は、シカゴ本部に積極的な折衝を重ね、シカゴ本部からペリー幹事の内諾の電報をえたが、国際ロータリー理事会の時期尚早の回答で延期されることになる。この結果は、翌1928年5月に名古屋で開かれた第3回日本インターシティ・コンファレンスで報告された。しかし平生の粘り強い交渉は続けられ、7月にはシカゴ本部が理事会で議題に取り上げ、8月15日に正式承認を得たのだった。初代ガバナーには米山梅吉が選ばれた。
こうして誕生を見た第70地区のクラブは東京をはじめ大阪、神戸、名古屋、京都、横浜に京城(現ソウル)を加えて7クラブ。1地区としてはその数に無理があったが、満州(現中国東北部)を含むことを前提としていた。70地区はやがて大連(1928年12月)、奉天(1929年3月)、ハルピン(1930年4月)、台北(1931年3月)にも広がる。この地区設定には、1932年にホノルルで開かれた第4回太平洋地域大会の席上、中華民国のロータリーから苦情が出たが、議題としてはとりあげられなかったことがある。
第2回太平洋地域大会の地区制が承認された承認された1928年10月、東京で第2回太平洋ロータリー大会が開催された。太平洋をとりまく北米、ハワイ、オーストラリアなどのロータリー・クラブが一堂に会して親睦を高める国際行事で、第1回の太平洋ロータリー大会は、1926年5月25、26日の2日間にわたってハワイのホノルルで開催された。日本から水嶼峻一郎が代表として出席したのをはじめ5カ国から433人が参加。議案の隔年開催を決議し、次回開催地に東京を希望する旨、水嶼に依頼されたのである。
当時日本のロータリー・クラブ数は5、会員総数約325人。開催地を委嘱された東京ロータリー・クラブの会員はうち125人であった。これだけの会員で準備から運営まで、取り仕切るにはかなりの無理があった。にもかかわらず、日本でのはじめての国際行事ともいえる大会を受けた背景には関東大震災に際して世界から寄せられた好意に報いたいという気持ちにあわせて、創設以来5年を迎えてクラブ運営が軌道に乗りつつあるなかで、国際的にも活躍したいという会員の情熱があった。
東京開催の決定後、東京ロータリー・クラブの会員は151人に増加し、日本の全ロータリー・クラブの協力が約束されていたものの、1クラブで会場の用意、接待のプログラムの編成から印刷物発行などの準備は容易ではなかった。
会期は10月1日から4日。会場は帝国ホテルであった。前年に、太平洋をとりまく諸国の、総数264のロータリー・クラブに招待状が発送された。さらに北米、ハワイには太洋丸、オーストラリアには安芸丸を特別配船して来会者の便宜をはかった。受入れに英会話やダンスのレッスン教室が開かれた。国際ロータリーの会長に選出されたばかりのトム・サットンの出席の返事があった。
大会出席は、海外ビジター9カ国109人(家族58)国内参加459人(家族259)であった。国内参加者のなかに、東久邇宮、田中義一首相が含まれた。
本会議、午餐会、晩餐会のほか、田中首相官邸でお茶の会が開かれた。大会のあと、海外から出席したサットン会長のほか100人あまりは京都を訪れ、京都ロータリー・クラブの例会に出席し、日本庭園での歓迎園遊会をうけた。京都クラブからはオーストラリアからの参加クラブに大日章旗が贈られた。
1925年9月に創設された京都ロータリー・クラブの最初の重要な大行事は、設定されたばかりの第70地区第1回年次大会のホストクラブとなったことであった。1929年4月である。
会期は、27、28日の2日間。登録は午前7時から10時まで京都ステーションホテル2階で行われ、会費は1人10円。ホストクラブの京都ロータリー・クラブから113人の登録があったのをはじめ、8クラブから385人が出席した。
大会1日目の27日は華頂会館を会場にして本会議が開会。席上、1911年のポートランド大会でのシェルドンの演説の一節「He profits most who serves best」というモットーの「profit」の意味をめぐって論議があった。ちなみにシェルドンは「profitは物質的利益であってもよい。求利の念を鈍化して正しい方法で利潤をあげるよう努力すべきである」と述べていたが、物質面だけでなく、精神面をも含まれるのではないかと問題提起されたのである。
会員には「スピーチ10戒」が確認された。その内容は「弁解、前置きを述べない」「プログラム委員に頼まれたなどいわないこと」「与えられた時間以上には話さない」「一度印刷された話はとりあげない」などである。
午餐会は知恩院雪香殿で精進料理の饗応があり、食後は円山公園を散策して祇園歌舞練場で「都をどり」を鑑賞。晩餐会は京都ホテルで開かれ、家族ともども社交ダンスを楽しんだ。
2日目の28日は、京都御所の拝観のあと岡崎の野村別邸碧雲山荘での園遊会、太秦の日活太秦撮影所の見学で、大会を締めくくった。
京都ロータリー・クラブにおいて、クラブ情報はいち早く『京都ロータリアン週報』として、発会式の当日から発行され、例会時に配られていた。2頁で、内容は第1ページに事務報告、第2ページには会員の専門的、趣味的なスピーチのほか、会員の出席率、異動の月報、委員会報告が詳しく掲載された。大まかには現在の各クラブで発行している週報とあまり変わりがない。裏面はすべて英文で翻訳されていて、とくに英語が会員間で尊重されたことがわかる。
ただ、この『京都ロータリアン週報』は1927年10月末で廃刊、その後「昭和日々新聞」、「ジャパン新聞」の名で発刊された改題紙のなかの1記事としてロータリー情報が掲載されたこともあった。定型のクラブ週報が発行されるようになったのは1928年9月からであった。創設3年目に入会した前田和三郎の努力で、新週報は名付けて『京都ロータリアン』。B5版、4頁であった。
会員をニックネームで呼び合うという取り決めが行われたのが、この時期であった。ロータリアンにかぎらずアメリカでは友達をニックネームで呼ぶ習慣があり、東京や大阪では会員同士がニックネームで呼び合っていた。京都クラブでも広岡伊兵衛会長が大阪クラブの例会を訪れたとき、会員バッジにニックネームが記されているのを見て、京都でも採用を提案。川勝正之がニックネーム委員長になって全会員に愛称をつけた。多くは屋号、職業、通称名からの命名であった。
ちなみに委員長の川勝正之・オツキサン、会長の広岡伊兵衛・チェリー、石川芳次郎・ペップ、ほかに典型的なニックネームを見ると、
伊谷市郎兵衛・マンミ、堀野久造・キンシ、野口安左衛門・ワカダンナ、鈴木庸輔・レントゲン、宮崎平七・イズモ、前田和一郎・マンガ、伊吹伝四郎・シャクハチ、下村正太郎・ショウチャン、千宗室・ソウショウ、田辺隆二・ゴルチャン、大谷塋韶・スプーン、大沢徳太郎・シボレー、六鹿清治・ゲンロク、田中新一郎・ダンシャ。
会員同士をニックネームで呼び合おうという試みは、京都クラブではなかなか定着を見なかった。「日本の国情にあわないのではないか」「ぎこちなく、効果が少ない」などの会員からの意見が週報にも取り上げられたりした。ニックネーム問題は1933年8月23日京都ホテルで開かれた「計画委員会」で議題になり、継続かどうかが議論されることになる。
「計画委員会」は、かつての「綱領委員会」(Aims & Object)、綱領についての委員会で、理事、役員、委員長で構成され、これまで不定期に開かれていたのを、この年に会長に選出された石川芳次郎によってしばしば開かれるようになった。
委員会では、例会の運営についてのSAA(会場監督)の役割、新入会員の教育、計画委員の職能について熱心な討議が繰り返された。ニックネームは、呼び慣れた会員からは寂しいという声もあったが、週報から消えた。おりしも9月26日に大阪綿業会館で第3回国際ロータリー第70地区協議会が開催され、クラブサービスの地区内統一、定款の尊重、ロータリー文献の邦訳が取り上げられ、京都クラブでは石川会長のリーダーシップで定款、細則の邦訳に取り組み、年末には「クラブ定款及び細則」の邦訳が完成する。
社会奉仕にも熱心で12月の歳末には京都養老院、京都救済病院の65歳以上の身寄りのないお年寄りや救護法による児童にお年玉を贈った。
翌1934年9月28日には、京都に未曾有の被害をもたらした「室戸台風」の被災者に京都市社会課を通じていち早く慰問状と見舞金を贈った。「室戸台風」は9月21日、南太平洋に発生したサイクロンが台風となり、四国の室戸岬に上陸して近畿一帯を襲って大きな被害をもたらした台風である。両洋中学の台風下の火災による焼死者30人をはじめ、30人をはじめ、市内小学校では授業開始間際とあって西陣小学校、淳和小学校、朱雀第7小学校などで校舎の倒壊などにより児童100人が亡くなるという惨事を引き起こした。全国のロータリーからも京都ロータリー・クラブに見舞いが寄せられ、義援金は1,000円にのぼった。
1935年は、日本のロータリー・クラブにとって記念すべき年であった。
この年、フィリピンのマニラで開催される第5回太平洋ロータリー大会が開催されるのを機に、出席のロバート・E・リー・ヒル国際ロータリー会長と共にポール・ハリス夫妻が日本に立ち寄ることになったのである。一行は、プレジデント・クーリッジ号に乗船して米国を出発、ニュージーランド、上海、などをめぐって2月6日午前8時に横浜着、2月10日に神戸からマニラに向かう予定であった。
報告を受けて東京では委員会を設け歓迎準備を進めて、横浜入港をまったが、あいにく日本周辺の海は大荒れに見舞われ、一行が入港したのは3日遅れの2月9日午前5時。おかげで日本の滞在はたった1日となってしまった。
ポールを迎えて日本のロータリアンは、わずかな日程のなかで歓待した。帝国ホテルに入ったポールは、内庭で月桂樹の記念植樹したあと、芝公園紅葉館での純日本式の午餐会、東京会館での晩餐会に出席。晩餐会は春爛漫の隅田川の景色に設えられ、名誉会員の斎藤実前首相や米山梅吉らの歓迎の辞で開宴されたが、ポールたちは歓をつくすいとまもなく横浜に戻り、プレジデント・クーリッジ号で翌10日早朝に神戸港に入った。
ポール一行は神戸から列車で午前7時50分に京都入りし、二条城を見学したあと、野村別邸碧雲山荘で茶菓の接待を受け、午前11時に京阪国道を大阪に向かうというあわただしさ。歓迎の晩餐会は新大阪ホテルで京阪神3クラブの共催により開かれたが、ポールたちはくつろぐ間もなく神戸から乗船して、上海経由でマニラに向かうという強行軍であった。マニラ大会には日本から14人が参加。ポールは大会で「He profits most who serves best」に触れ、「profits」はドルでもセントでもなく、人生の「something」であると強調したという。
ポールが帝国ホテル内庭に植樹した月桂樹をめぐって後日談がある。1968年、F・ライト設計による帝国ホテル旧館がとり壊されることになり、月桂樹は神奈川県大井町に移植された。30年余りの歳月を経て、枯死寸前であったが、数10本の挿し木を試みて再生させるという苦労があった。枯死した月桂樹からはペーパーナイフをつくって、記念品として残された。
ポールの初来日があって3カ月後の1935年5月、第7回第70地区年次大会が京都・朝日会館で開かれた。京都での地区大会は1928年5月の第1回大会についで2度目であった。
国際ロータリーから会長代理として来日したサットン元会長を迎え、すでに27ロータリー・クラブに拡大しつつあった全国のロータリー・クラブから823人が集まるという盛会であった。ホストクラブの京都クラブからは会員と家族を加えて186人が参加した。会期は4、5日の2日間。
1日目は、東久邇宮を来賓に、国際ロータリー理事の宮脇恒次郎、米山元ガバナー、井坂前ガバナーらが出席して開会。本会議に移り、地区年次大会の意義、ホストクラブの立場が議題に取り上げられ、会期を2日間とし、地区年次大会の主催はガバナーにあり、ガバナーの選出については前年にガバナーノミニーを選出することなどが確認された。出席率のコンテストでは、前年1位の京都ロータリー・クラブに代わって神戸ロータリー・クラブが1位となった。午後からは平安神宮神苑で京都市長主催による園遊会、続いて懇親晩餐会が祇園歌舞練場で開かれ、かねて募集していた日本語歌詞によるロータリー・ソングの当選者が発表された。
当選者はつぎの通りだった。
「旅は道づれ」
作詩・杉村廣太郎(東京)作曲・吉住小三郎(東京)
「奉仕の理想」
作詩・前田和一郎(京都)作曲・萩原英一(東京)
「平和を人の世に」
作詩・田崎慎治 (神戸)作曲・早川弥左衛門(名古屋)
「我等の生業」
作詩・高野辰之(東京音楽学校教授)作曲・岡野貞一(東京音楽学校講師)
ちなみに、現在も例会で歌い継がれているのは、前田和一郎の「奉仕の理想」と高野辰之の「我等の生業」に2曲である。
2日目は、二条城の観光、本願寺での舞楽「迦陵頻」」を鑑賞した。
この大会で注目されるのは、河田嗣郎大阪ロータリー・クラブ会長や井出薫台北ロータリー・クラブ会長から提案されてた国際ロータリーの中央集権的運営についての改革が論議されたことである。世界で2000を数えるまでに発展したロータリー・クラブを国際ロータリーの中央事務局で画一的に管理することの無理が問題提起されたのだった。
日本のロータリー・クラブが国際ロータリーに向けて機構改革を訴えたのは、1938年8月、比叡山延暦寺で開かれた地区協議会であった。国際ロータリーの中央集権を排して各国単位の自治分権化を押し進めようという改革の動きは、3年前にさかのぼる。1935年に京都で開かれた第7回地区年次大会で問題提起されたのをはじめ、翌1936年の神戸の第8回地区年次大会では「各区の特殊事情に応じ、ロータリー精神の普及徹底を期するため国際ロータリーの機構を区本位に改められんことを望む」と決議された。
こうしたロータリーの意向をうけて、地区協議会では、東京から提案された「機構改革研究委員会」設置の要望を正式に取り上げ、委員会で具体案を作成して、翌1939年にクリーブランドで開かれる国際ロータリー大会に提出することになった。
この具体案は、東京丸の内の丸ビル内の70地区ガバナー事務局から1937年7月にはじめて発行された機関紙『国際ロータリー月報』(1939年1月号)に宮脇(恒次郎)案として掲載された。具体案の内容はおおむねつぎの通りであった。
▽第70地区を日満ロータリーと改称して自治体とする。
▽ガバナーの名称も日満ロータリー会長と改め、これを選挙して国際ロータリー(Rotary International=RI)に報告し、RIはRIの役員と認める。
▽日満ロータリーの統括機関として評議会を設ける。全国を9区に分け、地区別に選出された評議員、日満ロータリー会長、直前会長、副会長、幹事、会計をもって評議員会を組織する。
▽会長には新クラブのチャーター付与権、人頭税の徴収権を与える。
▽会長は一切RIから独立し、毎半期毎に双方協議のうえ適当と思われる金額をRIに支払い、RIの種々な斡旋に報いる。
▽RIとの折衝は一切日満ロータリーがこれに当たり、日満ロータリーはRIの精神、組織、目的の維持に協力し、RIに対し一切の責に任ずる。
この日本ロータリーの改革案の背景には、イギリスのRIBI(Rotary International in Great Briten and Ireland)への志向があった。
RIBIは、イギリスとアイルランドのロータリー・クラブ(British Association of Rotary Club)が1913年に結成されたとき、英国風に自治的な運営を主張。国際ロータリーはこの要求を受入れ、1922年の国際大会で定款を改正し、国家単位、地域単位の管理を規定して生まれた組織だった。この国家単位の管理規定は1927年、オステンドの大会で国際性を有するロータリーの拡大発展に支障をきたすという理由で廃止される。ただ、既得権は奪わずということで、RIBIだけが世界のロータリー・クラブのなかで例外的に認められていた。
国際ロータリーは、このRIBIの存在に悔いを残していて、日本にも同じような特例を認める可能性は極めて薄かった。
おりしもシカゴ本部のポッター副幹事が中国、インドのロータリー活動の視察の途中に来日。日本のロータリー機構改革案を耳にするが、その実現のむづかしさを予告した。ただ、日満の現実から第70地区を数区に分割し、これをあわせて1つのロータリー地域として自治制をしくことならできるかも知れないと助言する。というのも当時日本、台湾、朝鮮、満州(中国東北部)を1地区としていることの無理が機構改革を離れてもあった。
1939年6月には、米山ガバナーにかわって芝染太郎がクリーブランドの国際大会に出席、第70地区のRIBIにならったRIJM(Jは日本、Mは満州)としての機構改革原案の提出を準備していたが、原案は、ポッター副幹事の指摘通りに受け入れられる状況にはなく、撤回を余儀なくされた。ただ、原案通りではなかったが、理事会は、日本の要望を入れて1939年度から第70地区を3つの地区に分割し、連合会をつくることを黙認したのだった。
理事会が認めたのは「3地区の統括機関として『日満ロータリー連合会』を組織し、会長1、ガバナー3、前ガバナー3、前会長1の8人の委員を置く」などで、実施は1939年7月からとした。1928年第70地区が設定されて11年目であった。
3つの地区は70地区が本州東部(福井、岐阜、三重、の3県を含む以東)と北海道の20クラブで、71地区が本州西部(滋賀、京都、奈良、の3県を含む以西)と四国、吸収、台湾の19クラブ。72地区は朝鮮と満州(中国東北部)の3クラブであった。
初代「日満ロータリー連合会」会長には、米山梅吉が選出された。第70地区のガバナーノミニーは横浜の平沼亮三、第71地区は神戸の岡崎忠雄、第72地区京城(現ソウル)の篠田治策が選ばれた。
第1回日満ロータリー連合会の年次大会は1940年5月5、6日の2日にわたって横浜で開会された。
第70地区の機構改革を求めて誕生した日満ロータリー連合会。しかし、その背景で世界の状況は、不穏な戦雲が広がりつつあった。日本では1931年9月の満州事変以来、軍国主義が強まり、戦時体制へとひたすら突き進んでいく。1933年3月には国際連盟を脱退。軍部と右翼による思想抑圧が表面化したのは1933年の京都大学の滝川事件であった。
1936年2月26日未明には、青年将校による反乱「2・26事件」が勃発、1937年7月7日、中国北部の蘆溝橋の一発の銃声を引き金に天津・北京に広がり、日中戦争という泥沼の戦争に突入する。ヨーロッパでは、1937年にドイツの42のロータリー・クラブとダンチッヒ自由市のロータリー・クラブが台頭しだしたナチスの弾圧によって解散、1938年12月にはオーストリアの11クラブ、イタリアの34クラブも解散命令を受けた。そして1939年9月1日、ナチスドイツの軍隊が国境を越えてポーランドに侵攻、ポーランドとの相互援助条約を結んでいたイギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告、ここに第二次世界大戦が勃発したのだった。
ドイツとイタリアと三国同盟を結んでいた日本にとって不安は現実の問題として差し迫っていた。時局の推移のなかで国際的な組織としてのロータリー・クラブにも活動を規制する動きが起こってくる。
国際団体という理由だけで、反戦的であり亡国的であるという偏見は重圧となってロータリアンに襲いかかった。右翼団体はロータリー・クラブ排斥の手を延ばし、例会に押し寄せた。
軍部や右翼団体などのロータリーへの偏見、風当たりは地方によって差異があった。関東地方は比較的弱く、近畿地方のクラブは強い圧迫を受けた。卓話の内容を特別高等警察に報告することが義務づけられたり、例会場に特高が詰めかけることもしばしば。そればかりか会長、副会長の勤務先や自宅に電話をかけて面会を強要して、今後の方針や行動について質問することもあった。
京都では、右翼団体の京都支部の結成式が岡崎公会堂であり、ロータリー・クラブ排撃が決議されるという事件があった。決議文は京都クラブ会長に手渡され。国家社会党から「ロータリーは国家思想に反するフリーメーソンの外郭団体だ」ときめつける書面がとどけられたりした。
日満ロータリー連合会は1940年8月14日の会合でロータリーは存続すると決議したが、地方ロータリー・クラブのなかで国際ロータリーから脱会するクラブが出る。ロータリー加盟禁止解散を打ち出したドイツやイタリアのように、日本でも同じ運命をたどることは避けられず、弾圧を受ける前に国際ロータリーを離脱してロータリーの名は避け、その精神、組織を維持した団体を結成しようという意図があった。大阪の8月12日をはじめとして岡山は19日、京都は21日、神戸、今治、帯広は9月5日、東京は9月11日とつぎつぎに脱会を決定した。日満ロータリー連合会は、9月4日の各委員会で離脱を決議し、新しい団体を組織することを決定したのだった。
米山会長は井坂孝、朝吹常吉、大沢徳太郎ら歴代パストガバナーをはじめ京都から石川芳次郎、絹川清、大阪から岸本彦衛、露口四郎、横浜から田尻常雄らの25人を新団体創立委員に指名、さらに京都の石川ら7人を定款起草委員として選んだ。新団体の名称は「七曜倶楽部連合会」としたが、この連合会がどう運営されたかくわしい記録はない。
京都ロータリー・クラブは8月21日、国際ロータリー離脱を決定したが、離脱直前の例会で、クラブの解散か存続をめぐって会員間で議論百出。例会だけでは全会員の意思の確認ができず、会長は91人に電話、自宅訪問して賛否を求めた。結果は存続派が21人、解散派は66人、どちらともいえない保留派が4人で、最終決定は会長に一任され、苦渋の決断のなかで解散されたのであった。ロータリーの名での例会開会は続行不可能になったというものの、ロータリーの理想とする友愛と奉仕の精神の継承、創設以来の例会の継続を願う声は強かった。
京都ロータリー・クラブでは解散後の新しい組織の運営について、あらかじめ準備が進められていたが、決定後の1週目の8月28日に総会を開催。会名など新組織の申し合わせが確認された。
▽新しく設立された会を「水曜会」と称し、毎水曜日午後0時半から例会を開く。
▽会の目的、組織と活動を全てロータリーの形式に従う。
▽前のロータリー・クラブ会員は引き続き「水曜会」の会員となる。
ただ、設立総会はクラブ解散に反対した約20人の入会はなく、65人で行われた。
前後して関西の各ロータリー・クラブが国際ロータリーからの離脱、解散が相次ぎ、京都と同じような意図で、例会日を会名として神戸は9月5日に「木曜会」、大阪は11月15日に「金曜会」、東京では12月4日に「水曜倶楽部」を設立させる。例会日を会名にした新組織の結成は、京都が最初であった。
10月になって米山パストガバナーを中心にパストガバナーや新クラブの代表者が集まって、新しい組織の創立会が東京で開催された。京都から大沢徳太郎パストガバナー、石川芳次郎、絹川清が参加した。
当初京都水曜会はロータリー・クラブの解散にあたって一部会員間に不信感が根強く残っていて、京都の会員や東京のロータリー・クラブとの齟齬が生じ、新たなクラブが設置されても連合会に出席を除外されていた。12月になって、誤解も解け、全国の水曜会と一本化され、かつてのロータリーの友愛に満ちた例会が開かれるようになった。時局を反映して家族会や従来の年次大会、クラブ協議会などは開かれなかった。
やがて1941年12月8日、太平洋戦争に突入、言論に対する活動には峻烈であったが、水曜会の例会は干渉されたり、煩わされることもなく終戦まで平穏に続けられた。
(第2章執筆 杉田博明)